水と清潔の問題
これからは「湯水のように」とはいかない?
12月に入り、冬の気配を感じるようになりました。
一日の終わりに湯船につかるとホッとする季節です。
が、今私たちが当たり前のように享受している習慣も、歴史的にはかなり稀有なことですね。
さらに現代でも、同じ恩恵に預かっている人たちは世界の中で多くないのかもしれません。
そんなことを考えさせられたのは、先日何気なく図書館で借りた本、『水と清潔』(福田眞人著)がきっかけです。
本の出発点はインド。
「4000年の歴史をもつといわれるインドでは、今日の水や清潔に関する問題がすべて集約されているから」だそうです。
面白かったのは、インドでは動く水は清潔で、動かない水は不浄(不潔)だとされていること。
有名なガンジス川の沐浴も、日本人の感覚なら不潔と思いがちですが、動いている水である川、それも聖なる川ガンジスに身を浸すことは、浄化につながると考えられているのだとか。
細菌のあるなし、という問題ではないみたいです。
逆に風呂は動いていない水だから不浄で、多くのインドの人は寒い日でもシャワーを浴びるのだそうです。
人の信念がいかに強力に行動を支配するのかがわかりますね。
信念といえば、キリスト教世界では長らく、「身体の清浄さを嫌い、むしろその汚濁こそが、精神と道徳の清らかさと真の信仰心を表すものと考えた」のだそうです。
これもびっくりでした。
そういえば、かつてフランスのモンサンミッシェルを目指したバスツアーの中で、年に一度ほど町に下りてくる修道士たちが身体から強い臭気を放っていたと、ガイドの方が説明されていました。
沐浴を習慣化し、身体的衛生を不断に注意したというイスラム教徒への対抗心もあったのではないかと著者は書いています。
やがて19世紀に鋳物鉄の風呂桶が登場し、ナポレオンは毎日温浴をしたとか。
が、入浴の習慣が庶民にまで根付くのは19世期終り頃を待たなければならなかったそうです。
ローマ帝国では娯楽であった入浴習慣も、以後のヨーロッパではキリスト教の価値観の中では生き残れなかったのですね。
日本人は入浴好きといわれますが、古代から近代にいたるまで風呂についての記述は多くなく、その習慣も曖昧なようです。
学生時代に読んだイアン・フレミングの007シリーズ、『ジェームズ・ボンドは二度死ぬ』は、1950年代の日本を舞台にしていますが、そこでは日本の風呂文化や衛生観念への言及がありました。
うろ覚えですが、「日本人はみな石鹸のいい匂いがする」というような表現だったと思います。
江戸時代の浮世絵では浴場を描いたものもありますが、日常ではどうだったのでしょうね?
なんだかお風呂の話に終始してしまいましたが、今私たちにとって当たり前のようになっている入浴習慣も水の存在があってこそ。
さらに飲み水は生きていくためには不可欠です。
本の中では「地球上の水の在りか」が紹介されています。
それによれば、海水等が97.4%、淡水2.53%、地下水0.76%、河川・湖沼等0.01%、氷河など1.76%などとなっています。
地球温暖化によって海水温が上昇すると、気候変動の要因となり、その結果世界が干上がり、飲み水が不足し、地球崩壊、人類滅亡というシナリオすら現実味を帯びてくるのだそうです。
過去の例からみても入浴しないことで人が死ぬことはほぼありませんが、飲み水がなければ一週間も持たないでしょう。
水資源の問題の重大さを実感します。
ちなみに地球上の水の大半を占める海水の淡水化技術は日本がもっているのだそうです。
そうした技術が世界で利用されていくことに希望を託したいと思いました。
(2024年12月1日 岩田)