安岡正篤の人間学
知識・見識・胆識
今日は午前中がオンライン読書会、午後が対面の読書会でした。
前者は私以外が男性、後者は全員女性という構成で、雰囲気は違うものの、みなさん、1冊の本を通して考えたことや感じたことを話し合うという場を楽しみに参加してくださっているようです。
午前中の読書会では先月から神渡良平著『安岡正篤 人間学』という本を読んでいます。
この本は当初1992年に出版され、2002年に加筆修正されたものです。
私自身も90年代当時、安岡正篤(やすおかまさひろ)という名前を冠した本が数多く出版されていたことを記憶しています。
さて、この本の「はじめに」はこのような言葉で始まっています。
「昭和58年(1983年)に亡くなった安岡正篤は、東西の古典を渉猟し、人間としての在り方を模索した人である。その求道の姿勢の前には『歴代宰相の師』とか、『帝王学の祖』とかの形容詞も色あせてみえる」
易学者、哲学者、思想家であり、私塾「金鶏学院」を設立者した教育者でもあった彼は、政財界に大きな影響力をもっていたといわれます。
今日読んだ部分は「第2章 人物をつくる」。
中でも私自身が好きな個所は、「知識・見識・胆識」というところでした。
知識と見識について、“知識は大脳皮質の作用だけで得られるもので、人間の信念や行動力にはならない。もっと権威のあるものが加わらないと、知識は役に立たない。それが何かというと見識である”と書かれていました。
安岡正篤自身の言葉では、
「事に当たってこれを解決しようというときに、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどが内容となって出てきます。これが見識です」(『安岡正篤 人間学』より)
となります。
ただ、見識だけでは反対意見があるときに、説得して実行させるだけの力に欠けるといいます。
現実に事を推し進めなければならない実際家にとって、必要なもの、それを胆識というのだそうです。
確かに知っているだけでは判断ができない、判断ができてもそれを決断し、実行する力がなければ知識は役に立ちませんね。
決断し、実行する。試練に合っても進むことができるのは、胆識があればこそでしょう。
では、どうしたら知識を見識とし、さらに胆識にまで高めることができるのか?
安岡正篤は「学ぶにしかず」と言ったそうです。
先哲、聖賢によって道を学び、それにならおうとして切磋琢磨する中で、自分という人物を練り、器をつくっていくのだということです。
このような言葉はまっすぐに心に突き刺ささり、自らの姿勢を正さざるを得ないような感覚を覚えます。
そして同時に清々しさ、心地よさも感じます。
安岡正篤の言葉は、かつて読書会で扱った「ストア派哲学」にも通じるものがあり、人間を磨いていく道には西も東もないことを、参加者のみなさんと確認した時間でした。
(2024年11月3日 岩田)