世界は自分が作っている
投影しているものは?
昨日今日と長年続けている学びの場に参加しました。
長く続けていると、一緒に学んでいた人の中にも継続をやめる人、また新たに参加する人がいるのは当然のこと。
今回は特にやめた人が多かった半面、新しい顔ぶれが増え、新鮮でした。
ところで私たちには気の合う人、合わない人が存在します。
あるいは大して知らないのに、なんとなく親しくなりたくない人と、近づきたい人がいます。
単に好みの問題だと片づけるのは簡単ですが、よくよく探ってみるとそうではありません。
それを今日改めて実感しました。
ある人に対して抱く感覚や感情を探ってみると、その原因が自分の中にあることが多いものです。
あるいは原因のすべてが自分の中にあるともいえるかもしれません。
その人が〇〇な人だから…という理由にして自分の感情を正当化しがちなところを、自分の中にその根っこがあると言われたら、通常はあまり嬉しくはありませんね。
が、それでも何があるのかを観ようとすると、気づきがあったりします。
今日もそんな感じでした。
あるワークの中で、嫌いではないものの、自分が違和感を持つ特定の人をテーマにしました。
わかったことは、自分が抑圧していたものを体現していたのがその人だったということです。
具体的には、自分が苦手としている集中をその人は得意としています。
一方で集中する力がある場合、視野が狭くならざるを得ませんが、その人は全体を見ることは苦手そうです。
私は全体を俯瞰的にみることを大事にしているので、狭い視野の中で集中できる人を半ば羨ましく思い、半ば否定していたということがわかりました。
そのことは潜在意識の中に埋没していましたが、今回感覚的に「なるほど、そうだったんだ」という感じがありました。
気づきの力は偉大です。
「そうだったんだ」と腑に落ちると、周りの見え方が変わってきます。
違和感があるものは、自分の内側で気づけていないものが投影された結果なのですね。
見えている世界をつくっているのは、やはり自分なのだと実感した一日になりました。
(2024年6月16日 岩田)