探しもの

行方不明だったベルトの顛末

気に入っているコートがあります。
紺色で、買ったのは多分4年ほど前。
春と秋のわずかな期間しか着られない厚さですが、ちょうどいい季節になると取り出して着てきました。
それが、昨年の春から共布のベルトが行方不明になってしまっていたのです。
家で洗濯をした際、ベルトだけ後から洗ったのが理由でしょう。
どこかに大事に仕舞い込んだ記憶もあります。
その時は「ここなら見つけやすい」と確信していた覚えもあります。
が、半年後すっかり忘れてしまい、探しても探しても見つからないという事態を招きました。
大したものでなくても、探しているものが見つからないと、大切なものを失くしたような気になるものです。
ましてある程度気に入っていたものならなおさらです。
かなり一生懸命探しましたが、そういうときほど見つからないものですね。
別にベルトがなくてもコートそのものは着られますが、何となくもの足りなくて、この1年半は袖を通すことはありませんでした。
にもかかわらず、昨日ふいにそれが見つかったのです。
冬用のダウンコートをクローゼットから取り出そうとしたとき、なぜかカバーの中のハンガーにそのベルトがかかっていました。
「ずっとここにあったのに、なぜ気づいてくれなかったの?」とベルトに言われているようでした。
昨年も同じことをしたはずなのになぜ気づかなかったのか?
さらに春にダウンコートをしまうときにも一切気づかなかったのはなぜか?
謎しかありません。
ずっとモヤモヤしていたものが呆気なく解消されたときは、喜びより驚きの方が大きかったです。

村上春樹作品の読書会から

ところで一昨日オンラインで一緒に学んでいるメンバーが「まるごと村上春樹」という読書会を開催してくれました。
小説や映画は豊かな感情体験を与えてくれるものですが、私にとっては時に多くのエネルギーを使うことになるので、選択には慎重になります。
村上春樹の小説で読んだことがあるのは『1Q84』など、少数です。
これまでの印象は、感情エネルギーを消耗することは少ないけれど、「分からなさ」をまるごと抱え込んだような何ともいえない感覚を覚えるというものでした。
なので新刊が出ても手にとることはありませんでした。
一方で、他の人はどう感じているのかには興味があったのです。
一昨日は、何冊も読んできた人も、ほとんど読んでこなかった人も、一冊の本を取り上げあらすじと感想をシェアしたのちに、そこから誘発されたことを他の人が言葉にするという形で進みました。
私が読んだのは『神の子どもたちはみな踊る』という短編集。
5人の参加者全員に共通していたのは同じように「分からなさ」が存在していること。
そしてその「分からなさ」は、無意識の井戸を深く掘るようなもので、不快さもありつつ、どこか魅かれる部分もあること、です。

何を探すのか?

こじつけかもしれませんが、昨日探していたベルトが見つかったという体験と、村上春樹の作品との出合いにはつながるものがある気がしました。
そして読書会の翌日に見つかったことにすら意味を感じてしまいました。
「分からない」には「見つからない」と同じようなモヤモヤ感が存在します。
探しものをしているとき、私たちはどうしたら見つかるのか、知恵をしぼり、身体を動かして行動します。
もちろん「分からない」の方が難易度は高い。
何を探すのかも分からないからです。
参加者のひとりが作品から言葉を拾ってくれました。
(その人が書いてくれた文章なので、もしかしたら原文と相違があるかもしれません)

しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。

『ドライブ・マイ・カー』より

探さなければならないものは何か?
それが永遠の問いかもしれません。

(2023年12月3日 岩田)

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