苦手なことに挑戦するわけ

私の苦手なこと

みなさんにとって苦手なことって何でしょうか?
私の苦手なこと…数限りなくありますが、まずはリズムに合わせたり、思い通りに身体を動かすということが苦手です。
学生時代、大学の体育の時間にちょっとしたダンスがあったのですが、そこで悪戦苦闘し、友達に呆れられた思い出があります。
頭でイメージしたことと身体の動きが連動しないんですね。
だから、見たことをすぐに表現できるような人に憧れます。
日ごろはできないことを諦めているモードで過ごしていますが、時々改善したいと思うことがあり、この3月まで同じく苦手としていた歌(シャンソン)を習っていました。
正確には覚えていませんが、6年以上は通ったでしょう。
歌うことへのハードルが下がり、楽しめましたが、かといって生来のリズム感のなさはそう簡単には変わるものではないのだなぁと実感しました。
(決して先生のせいではありません、私の資質のせいです)
で、昨年からはなぜか縁あってお煎茶のお稽古に通うようになりました。
足を踏み入れたら奥が深そうで躊躇する世界で、一年以上たってやっと馴染んでたものの、今のところは初歩の初歩をウロウロしている実感しかありません。

なぜ苦手なことに挑戦するのか?

「苦手で多分人より時間がかかりそうなのにわざわざ習うのはなぜか?」
最近自問したのはそんな問いです。
浮かび上がってきた答えは「できない自分を感じることに意味があるから」というもの。
本当はできれば得意なことだけやって、「できる自分」を感じていたい。
その方が断然心地よく日々を過ごせるはずとは思うのですが、「できる自分」だけを感じていると、私としては危ういと感じてしまいます。
間違いなく傲慢になっていそうな自分に、です。
コーチには共感力が問われます。
自分があれもできない、これもできないとわかっていると、できない人の気持ちに寄り添えます。
「そうだよねぇ、できないってツライよね…」という共感は、自分が「できない」状態を体験していないと生まれにくいと思っています。
これまで仕事でも「できない自分」を体験する機会はたくさんあり、そのたびに自己否定感でへこんできました。
ただ、同じことを長くやっているとさすがに失敗から学び、結果的にへこむ回数も減ってしまいます。
すると、ちょっと傲慢な自分が顔を出してきて、うっかりすると自分がなんでもできているかのように誤解してしまいます。
その点習い事というのは、ほどよく「できない」を体験させてくれる場です。
初心者として始めれば「できない自分」をしばらく体験できる。
やがて「できない」が少しずつ「できる」に変わることも楽しめる。
そんな場です。
仕事より責任がない分、気軽に挑めます。
ほどよく「できない」と感じる時の、やや不快な感じを味わえ、どうしたらできるのだろうと模索するモードになれるのです。

成長には適度な刺激が必要ですが…

こうして振り返ると、結構私って自虐的…。
日ごろからできる自分よりできない自分に目が向き、それを努力のエンジンにしている節があります。
それも個性なので仕方ありません。
過剰に自分を否定しない程度に利用するようになりました。
いずれにしても成長には刺激が必要。
習い事は刺激としては程よいものです。
水は流れがないと澱みます。
人にも刺激という流れが不可欠です。
そういう場を私は(あるいはすべての人が?)心の底で望んでいるのでしょう。
まあ、畳の上で足さばきから苦戦している今の私には、全く余裕がありませんが…。
いつになったら少し成長した自分を眺めることができるのか、まだまだであることは容易に予想がつきます。
徳川家康の有名な遺訓がふっと浮かんできました。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

ゆっくり進むことにしましょう。

(2020年7月19日 岩田)

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