思いがけず利他

大切なものは飛び込んでくる

先月下旬に、5年半にわたる中国での単身赴任勤務を終えて、お陰様で娘婿が元気に帰国しました。
その間に誕生した長男の孫も、来月には5歳になります。
帰国後20日も経ったので、そろそろ落ち着いたころだと思い、夫と私、そして娘家族5人がそろって、昨日、帰国を歓迎する夕食会を開催することに。 
待ち合わせの集合時間を利用して、私はこのブログを考案・作成する資料を得るために、一足先に家を出て駅前の書店に寄りました。
何となく目当てのテーマはあったのですが、店内で探している内に、実際に心を惹かれたのがこの1冊でした。
『思いがけず利他』(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。中島岳志著)
帯封に――誰かのためになる瞬間は、いつも偶然に、未来からやって来る。――と書かれていたこの言葉に、もう何の迷いもなく購入することに決めました。
まだ深く読み込んではいないので、著者が伝えたい主題から少し外れているかも知れないという不安を抱えながらも、今の私にとても必要な学びが詰まっているという直観があるのは、不思議です。

「利他」と「利己」

私達が「利他的」であろうとするとき、そこには多かれ少なかれ「利己的」な思いが含まれています。
今まで漠然とは感じていたのですが、この本の中にも書かれているように、利他的な振る舞いをすることで、「善い人」というセルフイメージを獲得しようとする利己的行為なのではないかという、一種独特な「うさん臭さ」がつきまとってきます。
同じように「ボランティア」や「奉仕」という言葉や行為に対しても、どこか「偽善的」な一面を感じてしまうのも事実です。
文中には、「利他には様々な困難が伴います。偽善、負債、支配、利己性…………。利他の生き方になることは、そう簡単ではありません。」とも書かれていて、とても共感を覚えました。
利他的なことを行っていても、その根底の動機が利己的であれば、「利己的」と見なされるでしょうし、逆に自分の為と思って行っていたことが、結果的に自然と相手をケアすることにつながっていれば、それは「利他的」と見なされます。
両者を分けることはとても難しく、「利他」と「利己」には、明確な境界はないような気がします。

私の好きな言葉

私は、「誰かの何かのお役に立つ」とか、「人生のご恩返し」とか、「喜びの種を蒔く」とか、「奉仕」「献身的」「無私の心」…など、これらの言葉に、理想としての憧れがとても強くあり、最近は特に好んで使って来ました。
しかし現実の日常生活では、これらの実現化はとても難しいことばかりです。
だからと言って、目標や努力を全く諦められるかと言うと、せっかく生まれて来て、それも残念過ぎます。
私は、どう生きたいのか?これからどう終活をしたいのか?
またまた改めて自分の心と向き合ってみることにしました。
開き直って感じたことは、何でも自力ですべてを成し遂げられる訳ではない、そんな力はないことは知っているということです。

自己の能力の限界を知る

大切なのは、まず自分で力の限りを尽くしてみること。
自分で、頑張れるだけ頑張ってみると、私達は必ず「自分の能力の限界」にぶつかります。そして、絶望的な無力感に陥ります。
重要なのは、「その瞬間だ!」と、著者は語ります。
以下、少し長い引用になりますが――

有限の人間にはどうすることも出来ない次元が存在する――そう認識した時、そこに『他力』が働いてくれる。
表面的には、偶然に見えるけれども、その偶然を呼び込むことのできる器になれるかどうかが問われる。
そして、この器にやってくるものが「利他」。
だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はない。
分かり易く言うと、毎日を精一杯生きる事。
私に与えられた時間を丁寧に生き、自分の場所でなすべきことをなす。
これが、自分という器に、利他の種を呼び込むことになる。

『思いがけず利他』より

私にとって大切な生き方は、心の奥底から「感謝」すること。
そうせざるを得ない衝動に突き動かされて、大切だと思ったことに、思わず心も身体も動いて行く、そういう人生を送ることが出来れば幸せです。
そのために、心身の鍛錬を続けたいと思います。

(2023年6月11日 若杉)

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