肯定的に諦めて前に進む

集客というトラウマ

今年からオンライン読書会を始めることに決め、今日はその第1回目でした。
私を含め8名で、全員で一緒に話を聞き合う形態としてはちょうど良い人数でしたし、みなさんの真摯な姿勢により、1時間半が充実した時間になったと感じました。
一年間、途中からのご参加も受け入れられるよう、シェアの仕方などに工夫して続けていきます。

さて、有料無料にかかわらず、自ら企画して、参加を募るということが私にとっても久しぶりでした。
かつて神戸市民大学講座は財団法人として多くの講師を招いて、講座を開催していました。
私が入ったのは1980年代半ばでしたが、20年間ほど平均200~400名ぐらいの受講生を集めていました。
特にその前半は参加者が多いのが当たり前という状況だったため、募集のツラさを感じることはあまりなかったことを記憶しています。
21世紀を迎える直前には社会が大きく変化し、同じような形態で集客することが困難になっていき、財団は2012年に解散することとなりました。
解散までの期間、私の記憶の中には、イベントの集客には苦労が伴うというイメージが蓄積していったようです。
2013年から株式会社になりましたが、代表の若杉共々のんびりやっていきたいという気分が強く、主催する企画よりも、呼ばれて講師として出向く、依頼を受けてコーチングをするなどを選ぶことが多くなっていきました。
今思うと、もう集客は懲り懲りというようなトラウマに近い感覚があったのだと思います。

今年発信するようになった理由

今年は三田村薫さんとのコラボ・セミナー(1月29日に第1回プレ・セミナーを行います)を企画していますし、このオンライン読書会もスタートさせました。
(ついでに今、Clubhouseで別の読書会をしようかとも考えています)
過去の自分から見たら別人かと思うほど、自ら動こうとしていることに驚いています。
そうなってきたのはなぜか…?
その答えのひとつは、一部のエゴが弱くなったからかな、と思います。
そのエゴとは、多くの人を集めたい、それによって自分が満足したい、有能だと確認したい、というようなエゴです。
人から良く思われたいというのもそれに含まれています。
そのようなエゴの働きに気づいたら、存在を認めるしかありません。
存在を認めることで、エゴに囚われている自分と、エゴから解放されたい自分が表面化し、内面の葛藤が大きくなりました。
その葛藤に少し変化が見られたのは、還暦がきっかけだったと思います。
これからの人生は結果に囚われず自由にやったらいいという許可を自分に出せたように感じました。
「メメント・モリ」とは「死を想え」という有名な言葉ですが、人生も終わりの方になると、ちっぽけなエゴよりも大事にするべきことがあると考えるようになる人も多いのかもしれません。
過去の経験から学んできたことも、自分を閉じ込めていた狭い檻から自分自身を解放させることにつながるでしょう。
年齢を重ねることにも良い面があるものです。

肯定的に諦めるとは?

最近「肯定的に諦める」という言葉が気に入っています。
「諦念」というと、何もかも諦めて消極的に生きるというようなイメージが浮かぶかもしれません。
ここでの「諦める」は、エゴを諦めるということにもつながります。
成功やお金に対する執着など、何かにこだわり過ぎるのはエゴの働きです。
エゴは必要なものですが、エゴに従って生きることが良い人間関係を築き、幸福な人生につながるかというと、そこには疑問符がつきます。
何事においても自分の利益を優先しようというのがエゴの特徴です。
生物としての本能としては正しいわけですが、社会生活においては、利他の視点が不可欠でしょう。
とはいえ、簡単にエゴを諦めることもできないというのが、悩みどころです。
肯定的に諦めることの一歩は、結果への期待を手放して目の前のことに集中することではないかと思います。
責任ある仕事で結果への期待を手放すことは難しいでしょうが、その期待の中には人からよく思われたいとか、自分だけが成功したいというエゴが含まれていることがあるので、その部分をできるだけ手放せるといいのかもしれません。
結果に囚われなくなると、背負っていた荷物が少し軽くなるような感覚があります。
さらに「諦めた方がいいこと」と「諦めない方がいいこと」を見極められるようになったら、最高ですね。
皆さんが諦めたいことは何ですか?

(2022年1月16日 岩田)

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