ワクワクの源泉は何ですか?

「観察」は奥深いもの

最近観察という言葉の奥深さを感じています。
観察とは「ものごとの状態や変化を客観的に注意深く見ること」(大辞泉)。
さらりと書かれていますが、そもそも客観的に見ること自体が難しいことです。
無意識に自分の主観が入る中で、客観によせる意識をもつだけでも努力がいります。
どこまで客観的になっているかは別にして、このところ観察を心がけています。
観察の対象は、かつては目に見えるものごとが中心でしたが、今は目に見えない自分の状態も含んでいます。
少しでも冷静に観察ができると、自分への問いの質が変わってくることを感じています。

自分をワクワクさせているものとは何?

この1か月ワクワクする気分で過ごした実感があります。
これまでと大きく違うことがあったわけでもないのに、 出会った人、体験した出来事の多くがとでも刺激的に感じられました。
その体験を通して生まれた問いは、
「なぜ自分はワクワクしているのだろう?」
「自分をワクワクさせるものとは一体何だろう?」
です。
しばらくそれらの問いを持ちながら過ごしていると、
「私は人間というものを知ることにワクワクするのだ」だという答えが見つかりました。

かつての観察は自分を守るためだった

「人間を知る」ことへの興味は私にとってなじみのあるもので、格別驚くようなものではありませんでしたが、今回はそれが自分のワクワクにつながっているということが発見でした。
そもそも私にとっての最大の謎は「人のこころ」です。
謎を解く楽しみというのは誰にもあるものですが、人のこころの謎はなかなか解けません。
それでずいぶん苦しみました。
若い頃の私は当然知識も経験も乏しく、ひとりで悪戦苦闘するしかありませんでした。
自分の理解を超えるまわりの世界は脅威でしかなく、無知であることが恐怖でした。
私は何も知らない、ちっぽけな存在だから、人とうまく付き合えないのではないか?
その不安すら自覚できず、ただ人から受け入れられるための言動を選択していた気がします。
相手に不快感を与えないために「ちょっとイヤなことでも断らない」「喜んでもらえる言葉を選ぶ」などなど。
当時の観察とは、自分のまわりの人や出来事を自分のフィルターを通して見ることであり、そこに自分自身は含まなかったか、歪んだフィルターで見ていただけでした。
そして観察の目的は何よりも自分を守ることだったのです。
不安を払拭するために守ろうとするわけですが、実は不安がない状態というのは守っていない状態です。
守ろうとしている限り不安はぬぐえないという逆説を頭ではわかっていても、体得することは難しかったのです。

自分をニュートラルに観察できるようになって変わったこと

人生も後半に入った時期になって変わったことがあります。
まずは自分を観察の対象にして、そこにジャッジをしなくなったこと。
そして自分を守ろうという姿勢が少なくなったこと、です。
それによって「人間を理解したい」という欲求がワクワクにつながるようになりました。
最近楽しいと感じるのは本来の自分のワクワクの源泉とつながったからなのかもしれません。
ワクワクは何かを生み出す原動力になります。
次の問いも生まれました。
それは
「私は観察して自分なりに人を理解することを楽しんでいるけれど、それは何のため?」
です。
人生が楽しいのはステキなことですが、それだけではなんだか物足りない…。
ワクワクが次の何かにつながることを求めている自分がいます。
次の自問は、
「そもそもなぜ自分は人間を理解したいんだろうか?」
答えかどうかはわかりませんが、人間への理解をよりどころに自分を活かしたいという動機があるのではないかと思いました。
では「本当に自分を活かすとはどういうことなのか?」
簡単に答えはでません。
探求が終わらない前に人生の終わりがくることもあるでしょう。
それでも今より少しは近づいていたいという欲があります。
その欲が新たな境地に導いてくれると思うと、ありがたいと感じます。
みなさんのワクワクの源泉は何ですか?

(2019年12月1日 岩田)

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る