「生かされている」実感とは
過去をふり返ると後悔でいっぱいになる…
最近、友人から過去の自分のことを思い出すことが多いという話を聞きました。
未熟だった自分に対して、まわりにいてくれた人がどう見守ってくれたのか、それが今になってしみじみわかるとか…。
その時はそれに共感しつつ「そうなんだ」とただ受け止めただけでした。
それでも何かが心に残っていたのでしょう。
その後数日間、自然に自分の過去をふり返るようになりました。
思い出し始めると、普段忘れているようなことが次々と出てきます…。
「あの時あんなことを言ってしまった」
「子どもがもっと小さい頃にこうしておけば…」
だいたいが失敗したことやら、後悔したことやら、です。
過去をまっさらにする消しゴムがあれば…とか、もう一度やり直せたら…などと思いますが、もちろんそんなことはできません。
いろいろな人に迷惑をかけたなぁとしみじみ思いました。
ある日の体験
ある夜、一連の流れの総括のように、いろんな自分の至らなさが胸に迫ってきました。
「生きていることが申し訳ない」ような思いとともに、体全体に痛みが走り、眠れなくなってしまいました。
ただ痛みのなかにとどまっていることしかできませんでした。
しばらくすると突然「それでも生かされている自分なのだ」という思いがどこからか湧いてきたのです。
体の奥から温かな何かが芽生え、少しずつ硬さがほどけていくような感覚でした。
今までにない体験でした。
「生かされている」という言葉は、よく聞く言葉です。
語る人の実感によって重みも違うはずです。
今回の私の体験は「価値のない自分であっても許されているという実感」による「生かされている」でした。
「あやまち」と「生かされている」はつながっている
後悔とは過去のあやまちを悔やむことです。
そういえば「あやまち」って、「過ち」と書きます。
誰もが良いと信じて何かをするわけですが、実は良くはなかったというときに「あやまち」になります。
「あやまち」に気づくと学びになり、次からの言動に反映されるようになります。
「生きる」ということはたくさんの「あやまち」を経験にして賢くなっていくこと。
「生かされている」という実感は、痛みと感謝が入り混じった「あやまち」からのギフトのような気がします。
(2017年12月2日 岩田)