まちがうことを怖れる気持ち

久しぶりの読み聞かせ

先月の末から時々小学校に読み聞かせにいくことになりました。
久しぶりのことです。
我が家の子どもたちが小学生の時に合計7年ほどやっていましたが、卒業以来5年以上も経過した今、まさかまたそんな機会が来るとは思ってもいませんでした。
そんなわけで、初めて教室での読み聞かせを体験する一年生と担任の先生の前に立った時は、ちょっとドキドキしました。
選んだ本は『学校はまちがうところだ』です。

蒔田晋治さんという先生が書かれた下の詩が絵本になったものです。

教室はまちがうところだ ~ 蒔田 晋治
教室はまちがうところだ
みんなどしどし手をあげて
まちがった意見を言おうじゃないか
まちがった答えを言おうじゃないか
まちがうことをおそれちゃいけない
まちがったものをわらっちゃいけない
まちがった意見を まちがった答えを
ああじゃあないかこうじゃあないかと
みんなで出しあい 言いあうなかでだ
ほんとのものを見つけていくのだ
そうしてみんなで伸びていくのだ
いつも正しくまちがいのない
答えをしなくちゃならんと思って
そういうとこだと思っているから
まちがうことがこわくてこわくて
手もあげないで小さくなって
だまりこくって時間がすぎる
しかたがないから 先生だけが
勝手にしゃべって 生徒はうわのそら
それじゃあちっとも 伸びてはいけない
神様でさえまちがう世のなか
ましてこれから人間になろうと
している僕らがまちがったって
なにがおかしい あたりまえじゃないか
うつむき うつむき
そうっとあげた手 はじめてあげた手
先生がさした
どきりと胸が大きく鳴って
どっきどっきと体が燃えて
立ったとたんに忘れてしまった
なんだかぼそぼそしゃべったけれども
なにを言ったかちんぷんかんぷん
私はことりとすわってしまった
体がすうっとすずしくなって
ああ言やあよかった こう言やあよかった
あとでいいこと浮かんでくるのに
それでいいのだ いくどもいくども
おんなじことをくりかえすうちに
それからだんだんどきりがやんで
言いたいことが言えてくるのだだ
はじめからうまいこと言えるはずないんだ
はじめから答えがあたるはずないんだ
なんどもなんども言ってるうちに
まちがううちに
言いたいことの半分くらいは
どうやらこうやら言えてくるのだ
そうしてたまには答えもあたる
まちがいだらけのぼくらの教室
おそれちゃいけない わらっちゃいけない
安心して手を上げろ
安心してまちがえや
まちがったって わらったり
ばかにしたり おこったり
そんなものは おりゃあせん
まちがったって だれかがよ
なおしてくれるし 教えてくれる
困ったときには 先生が
ない知恵しぼって教えるで
そんな教室つくろうやあ
おまえへんだと言われたって
あんたちがうと言われたって
そう思うだからしょうがない
だれかがかりにもワラッたら
まちがうことがなぜわるい
まちがってることわかればよ
人が言おうが言うまいが
おらあ自分であらためる
わからなけりゃあ そのかわり
だれが言おうとこづこうと
おらあ根性曲げねえだ
そんな教室作ろうやあ

 

大人でもまちがうことは怖い

手を挙げるときのドキドキ感に共感しながら、先生のストレートな呼びかけに安心するような内容です。
先生と一緒にこんな教室ができたら、子どもたちもまちがうことを怖れずに、どんどん手を挙げられそうです。

では、大人はどうでしょう?
私自身をふり返ってもやはりどこかで間違うことを怖れています。
「今いる場のなかでは一体どうすることが正解なのか?」
そんなことを無意識に探り、自分の意見を言うのを躊躇してしまうこともあります。
安心できる場だとその躊躇はだいぶ少ないのですが…。
経験上、大人でも大多数の人はまちがうことを怖れているのではないかと思います。

まちがうことを怖れて何もしないことと、まちがってもいいからと何かしていくことでは、得られることはずいぶん違うはずです。
私も年齢とともにだいぶまちがうことへの免疫ができてきましたが、もう少し早くその怖れに気づき、いろいろなことに挑戦していたらもっと良かったという思いもあります。

今回、一年生たちにどれだけ意味が伝わったのか…。
残念ながら反応からは読み切れませんでした。
メッセージの一部が子どもたちの心のどこかに残って、まちがいを怖れなくてもいいと思ってくれればいいな、と願いつつ、教室を後にしました。

(2017年12月10日 岩田)

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