私たちは自分のことを知らない

自分が思っている「自分」は本当?

「わたしは平和主義者だ」
昨日、自分を一言で表すとどんな言葉になるかを考える機会がありました。
そこで言葉にしたのが、この一言。
人との争いを見るのも、巻き込まれるのもイヤで、ただただ穏便に事が収まることを願ってきた、というのが長らく私のセルフイメージでした。
なので、思わずそんな言葉が出てきたのです。
すると、最近の私をよく知っている人たちから、「もっと違う言葉になりそう」だとか、「深いところに違う何かがあるのでは?」などというフィードバックを受けました。
なるほど、そうかもしれない…。
では、何になるのだろう?
改めて考えてしまいました。
昨日はああ言ったものの、今日なら違う言葉になっているのかもしれない。
さらにフィードバックを受けて、考え直したらまた違うものになるのかもしれない、とか。
知っているようで知らない自分のこと。
いえ、むしろ知っていると思っている方が錯覚なのですね。

角度を変えれば歪みが修正される

とはいえ、長年自分につき合ってきたのは、ほかならぬ自分自身です。
自己分析だって的を射ている部分はあるはず。
歪んだ鏡であってもその人を映していることに変わりはありません。
鏡に映った自分の口元がちょっと歪んで見えたとしても、ちょっと角度を変えてみれば、きれいな弧を描いて見えるのです。
他者からのフィードバックは、まさにその角度を示してくれるもの。
自分では見られない角度から見る機会をもらえるので、ありがたいことです。
もちろん、人のフィードバックは、時に受け入れるのが難しいこともあります。
驚きと共に拒絶したくなることも過去にはたくさんありました。
が、ただ相手からそう見えているのだという事実があるだけです。
多くの場合、それを素直に受け入れる方が良いということを、これまでたくさん学んだので、今は自然に受け入れられるようになりました。

多数の視点でさらに歪みを正すことができる

人はみな多重人格だといわれます。
ある時はほがらかで温厚な姿を見せている人が、別の時は人を寄せ付けない厳しい表情を見せることがあります。
まるで正反対に見える人格のどちらが本当なのか?
答えは、どちらもその人です。
相手や場所によって、自動的に登場する人格がいくつかあるのです。
私自身をふり返っても、多重人格であることを自覚せずにはいられません。
が、それぞれの人格についてはほとんど知らないのが現実です。
他者の視点によって、それを伺い知るしかありません。
直接フィードバックしてもらうことは難しいですが、反応や言葉の端々から感じられることである程度の情報は受け取ることができます。
きっと、いろいろな人から見えている自分と、自分がつくりあげたセルフイメージを総合したところに、本当の自分というのが存在しているのでしょう。
多分生きている間に「自分」の全貌を知ることはできないでしょうが、少しでも深められたら、人間全般を知ることにつながっていきます。
ひいては良い人間関係を築き、自分らしい人生を生きることにつながるのではないでしょうか。
最も愛している「自分」だからこそ、より深く理解していきたいと思っています。

(2023年5月7日 岩田)

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