テーマを持って日々を生きる

『自由』について考える

「神戸市民大学講座」の受講生メンバーで構成している、「勉強会」と名付けた「対話会」を長年開催しています。
思えば本当に長いお付き合いになりました。2005年・愛知県名古屋市での『愛・地球博』以来、折に触れて旅行にも行くようになりました。
コロナ感染拡大の以前は毎月1回対面形式で、コロナ禍になってからはオンラインで「対話会」を続けています。
それぞれが近況報告を中心に語り合って来ましたが、最近は、前の月にテーマを定めて1カ月を過ごすようになり、一層充実した感があります。
さて、今月のテーマは「自由」。
このテーマを受けて、最初に私の頭に浮かんだのは、何の強制も拘束も支配も受けないで自由気ままに振る舞う事。同時に、何もしないでいるのも有りだということでした。

🎵「あの大空に翼をひろげ、飛んで行きたいよ。悲しみのない自由な空へ 翼はためかせ…。」🎵(「翼をください」の2番の歌詞)

「屈指の透明度を誇る沖縄の海でのスキューバダイミング」

これらは、想像の世界では美しくて素敵だとは思いますが、飛行機すら苦手な私にとっては、現実世界では無縁のもの。
苦痛を伴うものは、選ばないことが「自由」の行使です。
また、自由な行動によって生じた結果には、本人が引き受けるべきという考え方があって、自由には必ず責任が伴います。
少し理屈っぽくなりますが、人間が真に自由を獲得できたのは、近代に入ってから。
「自由」を行使していく上で見落としてはならないと言われているものは、平等との関係。
それを裏付けるように、フランス革命の旗印には、「自由・平等・博愛」というスローガンが掲げられています。
今まであまり深く掘り下げて考えてこなかった「自由」という概念。
人間が人間らしく生きていく上で、最も基本的な条件は、精神的にも身体的にも、いかなるものからも拘束を受けないということ。
自由が拘束されたり侵害されたりすれば、人は決して幸福な状態にあるとは言えません。
憲法上でも様々な自由が保障されています。
例えば、「言論・思想の自由」「宗教の自由」「自由権」(「自由権的基本権」)――権力からの自由。

自由に不自由になる

受講しているセミナーで、「自由に不自由になる」ということを教えていただきました。
ここで言う「不自由」とは、規制・枠・ルール・法律…等のこと。
ルールや枠を尊重した範囲内で、目的を成し遂げるのにどうしたらいいかを真剣に考えて工夫をすることです。
つまり、自ら不自由を選択してアイデアを駆使するということ。何だか人間の尊厳を思わされます。
折しも今日はオンライン「読書会」の日。
『ストア派 哲学入門』の6月23日の項目に、ハッとさせられました。
「回り道をする必要はない」(マルクス・アウレリウス『自省録』より)
少し長くなりますが、引用をお許しください。

「世の中の人に、何のために頑張っているのかと尋ね、更に『なぜそれをしているの?』『それがかなったら、どうなりたいと思っているの?』。

すると、そうした願いの奥底に、自由になりたい、幸せになりたい、仲間の尊敬を集めたい、という欲求が見えてくる。(中略)これらは、簡単に手に入る。『自由とはどこにあるのか? それは簡単、君の選択の中にある。幸せも、仲間からの尊敬も、君の選択の中に。』」

そうです。「自由」とは、憧れるだけのものでもなく、与えられるのをただ待つものでもなく、自らの意思で選択することで得られるものだというのです。

取り戻しつつある日常の「自由」

昨日は、孫の小学校の運動会。
密集を避ける意味で、2学年ずつ2時間ごとに3回に分けて開催され、観覧は1家庭2人までの制限付き。
最初の朝の部は6年生と1年生。
6年生の最後の運動会とあって、3歳の孫のお守も兼ねて私が、学年リレーとソーラン節の踊りを観覧。
午後の部では3年生の次女の徒競走とダンスを観るために主人が行きました。

今日は久しぶりに友人とのランチ会で、ゆったりとお喋りを楽しみました。
「自由」をテーマに考えることで。Withコロナの時代を迎えて、自己責任を十分意識して対策を図りながら、「自由」に生きることのできる時をようやく迎えつつある…と、感慨深い思いがしました。

(2022年6月5日 若杉)

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