どう考えるかは私次第
空間把握能力の欠如
人には様々な能力が備わっています。
先天的な素質、後天的に得たもの…を問わず、そのすべてに良い面と悪い面があります。
私は、空間把握能力が著しく劣っています。
幼い時から「地図が読めない」だけでなく、何度も通った道であるにも関わらず、誰かを案内しようとすると、緊張も相まって必ずと言って良いほど迷子になります。
主催していた講座の終了後に講師を夕食の会場にお連れする時は、前もって何度か道順を確認してメモを片手に実際に歩いて、シュミレーションをしていたほどです。
つい先日、毎朝実践している『歩行禅』で歩いていた時のこと。
家の近所を、往復30~40分気の向くままにコースをとって歩いているのですが、少し膝が痛いので軽めに歩こうと思って真横に歩くことにしました。
しばらくして、ふと何気なく一筋上の道を歩いてしまい、途端にどこを歩いているのか分からなくなり、何と1時間20分もグルグルと痛い足を引きずりながら歩き回ってしまいました。
「歩行」どころか、「徘徊」だ…と、我ながら呆れて苦笑いをしながら帰って来ました。
家族はもう慣れたもので、「今日はちょっと長かったね」と笑って出迎えてくれました。
ここでお得意の検索を!
「迷子」とは、「自分が現在いる場所や保護者の所在が分からなくなり、自宅や目的地に到達することが困難な状況に陥った子供、もしくはその状態。」
成人でも、初めて訪れた場所などでは、同様の状況に陥りやすくなり、迷子と呼ばれることもあるようですが、知的障害や自閉症、認知症の成人は、「徘徊」と呼ばれるようです。
調べていくうちに、道順や目印を忘れる記憶障害や、自分の居場所が分からなくなり、慣れているはずの場所でも道に迷うことがあることを「見当識障害」と呼ぶと書かれていました。
私はこれが近いかなぁと思っています。屋内でも、トイレに行くと、帰り道に迷うこともしばしばあります。
元々「空間把握能力」や「立体把握能力」が劣っていて、展開図から元の図形が推測できないとか、物体や大きさ、物の位置関係を正確に認識するのは不得手です。
身体や学習、言語、行動のいずれかにおいて、不全を抱えた状態を「発達障害」と呼び、脳内の情報処理や制御に偏りが生じて、日常生活に困難をきたす場合は、治療が必要となるようです。
今は、有難いことに携帯電話で居場所が確認できたり、SOSの発信もできるので、大きな不安もなく過ごしています。
では、この「空間把握能力」の欠如がもたらす良いところ、光の面は何でしょう?
最近では、恐怖心よりも好奇心の方が強く出てきて、近所の大きな地図を買って探索しようかと思っています。
迷路やジグゾーパズルを解くつもりで、新鮮に迷子を楽しんでみようかという思いが何故か湧いてきています。
本当に「迷子」「徘徊」の時は、スマホでSOSが使えるようにはしておきますのでご安心を!
今だからできることを考える
私は、「いくつになっても勉強―」と、学ぶことは大好きなのですが、ふと、
「何のために学んでいるのだろう?」
「自分のエゴ、執着?」
「受講する若い人たちの前進を妨げたり負担になっているのではないか?」
「引き際は?」…
という思いが強く湧いてきて、ここしばらく倦怠感に襲われていました。
加齢による衰えや意欲の低下に消沈し、けれどもどこかで、これからの目標をどう定めるか…?という、両極の切実な課題を抱えていました。
折しも、セッションのテーマに挙げさせていただいたところ、幾つかの大きな視点の変換をさせていただきました。
「加齢」によって出来なくなることも勿論沢山あるけれど、では、「今だから出来るようになったことは…?」――この視点の問いは私にはなかったので、目からウロコでした。
出来ないというより、やらないことの理由に「加齢」を使っていたのに気付き、前向きに考えてみると、積み上げてきて、今だから活かせることは何かあるのかもしれません。
自分が何か新しいことを開発したり、率先して動くことが苦手なら、才能のある人をサポートする役目も大事なことだと思わされました。
まだ、具体的な目標は浮かんでいませんが、プラスの視点からじっくりと温めていきたいと思っています。
もう少し、やりたいことをやり続けて、最後は、赤瀬川原平氏が1997年に提唱された、「老人力」を発揮して、ユーモアたっぷりに人生をゆっくりと謳歌したいものです。
※【「物忘れが激しくなった」など、老化による衰えというマイナス思考を、「老人力」がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転の発想です。】
(2021年10月31日 若杉)