「終わり」についてのあれこれ

フランクルの「気分をふさいだ事実」

3月15日のブログで、ナチスによって強制収容所に送られ、妻や多くの家族を失いながらも生き延びたV.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』からエピソードを引用しました。
今回は以下の部分を引用します。

私たちは、重犯罪者のことをうらやましく思わざるをえませんでした。たとえば押し込み強盗は、自分が10年間刑に服さなければならないことをちゃんと知っているからです。釈放の期日まであと何日過ごさなければならないかをそのときそのとき計算することができるのです。なんと幸運な男でしょう。というのも、収容所ではだれもかれも、「期日」がなかったし「期日」を知らなかったからです。だれもいつ終わるのかを知らなかったからです。それが、ひょっとすると、収容所生活のなかで一番気分がふさぐ事実の一つでさえあったかもしれないというのが、仲間たちの一致した証言です。

『それでも人生にイエスと言う』 より

収容所生活が、劣悪な環境にわずかの食べ物、過酷な労働と、常に死と隣り合わせの厳しい状況であったことはさまざま記録から知ることができます。
それでもなお、「いつ終わるのかを知らなかった」ということが、一番気分がふさぐ事実の一つでさえあったかもしれない…。
フランクルはそう言います。

「終わり」や「期限」はありがたいが…

たしかに終わりが決まっているというのは、ありがたいこと。
締め切りがあるから、スケジュールを組んで取り組めます。
締め切りがなかったら、今すぐやらなくても…と先延ばしの理由にしてしまいます。少なくとも私は…。
フィットネスジムのサーキットトレーニングだって、2周すればいいことがわかっているから、頑張れる。
何周でもいいとなったら、自分で決めるしかありませんが、そもそもそれが億劫で行かなくなってしまうかもしれません。
他人に決められるにせよ、自分で決めるにせよ、いつまでという期限がある方が行動しやすいのは確かです。

でも、同時に期限や区切りというのは、不確かなものでもあります。
今回の新型コロナウィルスのパンデミックによって、昨年の今頃なら考えられないようなことが起こっています。
オリンピックを筆頭に予定していたものが予定通りでなくなる…。
確実にさまざまな「期限」がきられていたはずなのに、不測の事態によって予定は乱されます。
何事も実は確実ではないことが身に沁みます。
世界的に国境や都市の封鎖が行われるような状況の中、確かに終わりは見えないのですが、不安を感じながら終わりを待つだけにならないようにしたいと思います。
「終わりも何も決まっていないけれど、あなたはどう生きるの?」という問いが心に落ちてきます。
みなさんならどう答えますか?

(2020年3月29日 岩田)

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