無意識に心惹かれることは理想を反映している

やっと気づいた理想のひとつ

ここ数年、グループでの相互セッションをしています。
現在のメンバーは5名。
私以外の4名と毎月コーチ、クライアントを変わりながら1時間ずつのセッションです。
コーチとしても、クライアントとしても毎回気づかされることが大きく、本当にありがたい時間です。
先週木曜日はクライアントでした。
そこで気づいたことは無意識の中の私の「理想」で、まさに「目からウロコ」!
それは「私は人のために犠牲になる生き方を理想にしている」という気づきでした。
長年生きてきて、そういう生き方に惹かれていることは確かに知っていました。
三浦綾子さんの小説『塩狩峠』のように、自分の命を他の人のために犠牲することは素晴らしいこと。
ただ、自分には決してできないだろうということもわかっていたつもりでした。
ところが、今回のセッションで、この「自己犠牲」が大きな理想になっていたことに初めて気づいたのです。

自然に心惹かれることには大きな理想が含まれている

人が自然に心惹かれることは、その人にとってなんらかの理想が含まれています。
音楽、映画、本、場所、モノ、そして人…
あなたはそれらのどんなことに心惹かれますか?
理想はひとつということはありません。
無意識はいろいろな理想をもっています。

で、私の中にある理想のひとつが、「自己犠牲の生き方」だったのです。
これは相当深いところにあったみたいです。
だからなかなか気づけませんでした。
今思えばこの理想は、結構な場面で私の行動に影響を与えてきました。
人のために何かしようという健全な衝動も生んでくれたと思います。
一方で、理想が大きければ大きいほど、現実と比較したときにギャップが大きくなるのは当然です。
実際の自分は、決めたこともできない、人のためどころか自分のことばかり考えているとなったら、強い自己否定に走るしかありません。
そうか、私の自己否定の根底にはこういう理想もあったんだ…と、なんだか正体がわかった気分でした。
最近は細かな自己否定はだいぶ緩んでいるので、気楽に生きていますが、そうなってくるとやっと底の方にある大物が顔を出してくるんだなぁと思いました。
「これじゃいけない」と自分を鼓舞することが習慣のようになっていたのは、この理想も大きな働きをしていたのでしょう。

気づきは意外にあっけなくて地味なもの

で、「自己犠牲」の理想に気づいた私はどうなったのか?
行動が大きく変わったということはありません。
ただ気づいてホッとしました。
ホッとすると何かが緩む感覚があり、切羽詰まったように理想を追い求めなくてもいいという許可を自分に出せた気がします。
肩の力が抜けると逆に冷静に、できることを考えられるようになりました。
少しだけ「健全な自己犠牲」に向かえそうです。
派手に気づくということもあるかもしれませんが、私の経験では気づきは結構地味なものです。
それまで目に入っていなかったものに対して「あ~、ずっとそこにあったのね」と、存在を確認するようなものです。
同時に「やっと見つけてあげられた」という喜びもじわじわやってきます。
その感覚も人それぞれなんでしょう。
みなさんは最近何か気づいたことはありますか?

(2019年3月31日 岩田)

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