たまたま、偶然に起こること

最近の「たまたま、偶然」

世の中には、たまたま、偶然…と思えることに結構出くわします。
良いことであれば、「ツイてる」「ラッキー」と喜び、嫌なことであれば、「ツイてない」「運が悪い」と嘆きます。
「引き寄せの法則」などのように、「世の中の事象は全て、人間の意思で作り出す」…とまではいかなくても、何か必然性があって起こる事…と捉えれば、出来事にちょっと立ち止まってみることも面白いと思います。

先日、午前中での会合が終わり、お昼ご飯を食べに行きました。お金を払う段になって財布を開けたところ振込用紙を見つけ、銀行の窓口で支払いを頼まれていたことに気づきました。
早速立ち寄った銀行の案内係の方に、「丁度今混んでいまして、50分ほどお待ちいただくことになります」と言われました。
50分は長いなぁー、さてどうしようかなと思いましたが、出直すのも面倒なので、諦めてソファーに座って待つことに。
たまたま最寄りの駅での図書館で本の返却を頼まれていて、手元にあった本を読むことにしました。
「自分の価値を最大にする『ハーバードの心理学講義』」という題の本です。「パーソナリティ心理学」について、最近の知見をまとめたものでした。
硬い題名なので、まず、自分では選びません。
読みだしたのは、暇を持て余してのなせる業です。
長い待ち時間ではありましたが、読みだすと意外にとても興味深く、丁寧に読んでいたので50ページくらいしか読めず、このまま返却するにはあまりに心残りだったので、一旦返却して改めて自分の図書カードで貸し出ししようと思ったのですが、何と図書カードを家に置き忘れていました。
何故だか、この本に出会ったのには何か意味があるという気がしたので、暑さにもめげず、翌日に返却と貸し出しに行くことにしました。
私が課題にしていたことに、ドンピシャで即答を得るというような劇的な出会いではありませんでしたが、臨床心理学や人間性心理学からの流れや、新しいパーソナリティ理論が「クリエイティビティ」や「柔軟性」など、人間のポジティブな側面に注目していることなど多くの学びを得ることができました。

もう一つの偶然

先月、コンビニでの買い物の帰り道のこと。孫の通う小学校の前で、下校中の児童の集団に出会いました。ワイワイガヤガヤ、賑やかな集団です。
私は、ふと「もしもここで孫に出会ったら、奇跡の記念に何か買って上げたいなぁ」と思いました。
まさか会うはずがないと思いながら歩いていた時、塊の中から聞き慣れた声で「バーバー」と。
ニコニコして傍に来た孫に、心で約束した通り、一緒にコンビニに買い物に行くことにしました。
すると、約束もしていないのに、何と娘と下の孫二人がコンビニの前のベンチに座っているではありませんか。
結局、アイスとお菓子と月刊雑誌をそれぞれに買い与えて別れました。
私のスケジュールが5分違っていれば、すれ違う事すらなく、この奇跡的な出会いはありません。
「たまたま、偶然」と片付けてしまうには、何だか惜しい気がしました。

偶然の反対語は必然

ちなみに、「偶然」とは、何の因果関係もなく、予期しないことが起こること、またそのさま。
「必然」とは、必ずそうなると決まっていること。それよりほかになりようがないこと。
「急ぎの用があった時、電車やバスの乗り継ぎがスムーズにいったこと」
「混んでいた電車やバスで、自分が立っていた前の人が降りられて座れたこと」「ふと気になった友達に、バッタリ道で出会ったこと」
「何気なく見ていたテレビから、欲しかった重要な情報が流れたこと」
「あの時あの場に居なかったら、私の人生は大きく違っていた」……。
人生を左右する重要な出来事から、些細な日常の一コマに至るまで、多かれ少なかれ、気づくと気づかないに関わらず、皆様も経験がおありのことでしょう。
私達が「たまたま、偶然」と見ていることを、ある人は「奇跡」と呼び、キリスト教では「神の恩寵(恵み、慈しみ)」と呼び、アブラハム・マズローは「至高体験」と呼んでいます。
出来事をどうとらえるかは、個人によって異なります。
大げさかもしれないし、ロマンチストと思われるかもしれませんが、私は、「たまたま、偶然」の出来事であったとしても、そこに何かの兆し、サイン、意味を見出して行ければ…と思います。
感動・感謝に溢れた、豊かで彩りのある人生を生きたいものです。

(2019年8月11日 若杉)

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