二度あることは三度ある、ようです

腕時計について連続して起こったこと
今日から6月。
何かと忙しかった4月からの2か月を終え、ホッとしています。
さらに今日はしばらくご無沙汰してしまっていた友人とも、長い時間Lineで話をすることができ、良かったなぁと思っているところです。
さて、「二度あることは三度ある」ということわざがありますね。
みなさんはそれを実感した体験はありますか?
私は今まで意識してこなかったので、多分印象的な体験はこれまでなかったのかもしれません。
が、5月に3本の腕時計に起こったことは、まさにそれでした。
まず5月7日に長年愛用していた腕時計のパーツがなくなっていることに外出先で気づきました。
本体と金属部分をつなぐ小さなパーツで、時計屋さんに訊いたら、特別なものなので専門店にいかないと直せないとか。
母の形見なので、いずれは直せるところを探そうと思っていますが、今はファスナー付きの袋に保管しています。
仕方がないので、ケースの中で眠っていた別の時計に電池を入れ、使い始めました。
が、一週間ほどで、その時計の革ベルトが切れたのです。
古い時計だったので、革も摩耗していたのでしょう。
仕方なく、今度は祖母の形見の時計を使い始めました。
2番目の時計と一緒に最近電池を交換したばかりなので、すぐに使える状態だったのはありがたかったです。
ところが、なんとその一週間後ぐらいに、こんどはそれがなくなってしまいました。
腕時計にばかり、続けて起こった出来事、これは一体どういう意味?と思わざるをえませんでした。
そもそも腕時計が必要?と、若い世代には言われそうですが、外出時にはアナログの腕時計をしていることが習慣になっているので、私には必要なんですよね。
一連の出来事を単なる偶然ととらえることもできますが、私は下のようなことを考えてしまいました。
– 連続して同じようなことが起こるのは何か意味があるのだろうか?
– なくなったことを気にかける自分は、モノにどれだけ執着しているのだろう?
– そういう執着がなくなることはあるのだろうか?
身の回りのちょっとした事件は、気づいていない自分を知る機会にもなります。
なくなった時計はいまだに出てきません。
家までつけて帰ってきたと思っていましたが、どこかに置き忘れてきたか、落としたのかもしれません。
ただなくなった当初よりは、それを受け入れる気持ちになっています。
災害で一瞬にして家を失われる方もいらっしゃることを考えれば、祖母の形見であっても、1本の時計なんてどうということはありません。
いずれもっと大きな何かを失う可能性だってあるのですし…。
そんな5月を終えて、今つけているのは新しいベルトをつけた2番目の時計です。
(2025年6月1日 岩田)