大人の心が育つには

「子どもの心」から「おとなの心」へ

人は生れてから、自分本位で我儘いっぱいの「子どもの心」から、いろいろな経験や教育を通して、少しずつ相手や場に合わせることを覚え、「利他」の精神を培う「おとなの心」が育てられて行きます。
ある時は自制心を持ち、穏やかな心で過ごせていると思っていても、ほんの些細な出来事で心が揺らいでしまうことがよくあります。
その「おとなの心」を日常で保つために、必要なポイントが3つあると学びました。
一つは、『怒らないこと』(自分の感情をコントロールする)。
二つ目は、『他人と比べないこと』(人はそれぞれ課題を持って生まれてくるので、達成するために与えられた環境も資質や才能も個々に異なっている。だから、人を羨んだり、妬んだり、自分を卑下しても意味がない。足るを知ること)。
三つめは、『自己防衛をしないこと』――だそうです。
簡単ではありませんが、先の二つは、日常生活で意識して努力しようと思えます。
が、三番目の『自己防衛をしない』は、かなり高度なポイントで、実際にはどのように取り組んでいけばいいのか…戸惑いました。
と言うのは、防衛機制の多くは、幼少期の未熟で弱い自分の不安や不満足に対処するためのものだと言われていて、その鎧は容易に外せないと思えるからです。

自己防衛本能とは

そこで、この機会に自己防衛について、今一度掘り下げて考えてみようと思います。
自己防衛本能は、身体的危険や心理的脅威に対し、自分を守るための本能的な反応です。
何らかの葛藤や痛みを予感したり、危機に直面する自分を守ろうとして働く心を、心理学用語で「防衛機制」と言います。
私たちは本能的に、自分の感情や思考をコントロールして自分を守って、自己評価や自尊心が低下しないようにしています。
その例としてよく紹介されるのが、イソップ童話の『酸っぱいブドウ』の物語。
ご存じのように、狐がブドウを取ろうとして取れなかった後に、あの狙っていたブドウは酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると、自己正当化した寓話です。
これが転化して、自己の能力の低さを正当化や擁護するために、狙ったものは価値のないものだと主張する、いわゆる「負け惜しみ」を意味するようになりました。
この理屈は、恐らく多くの方が理解されると思います。
理屈は何であっても、本来の目標を達成できなかった時に、そのことで自分が傷つかないように正当化の理由を考えるのです。
心理学では、このような心の動きを「合理化」と呼びますが、簡単に言えば「負け惜しみ」のことです。
例え、負け惜しみであっても、そう考えれば気が済むのでしょうが、長い目で見れば、「合理化」によって自尊心の傷つきは避けられたとしても、自己防衛が過ぎると、欲しいものが得られない、やりたいことができないという状態に慣らされてしまいます。
また、自己防衛の一つに『逃避』があります。
不安な状況から逃げ出すために、自然に選んでしまう方法ですが、気を紛らわすことで現状を乗り切ろうとします。
「現実への逃避」、そして真逆の「空想への逃避」がなされます。

「しなやかな生き方」を目指す

大事なのは、いつまでも逃げ出した場所に留まらないこと。
元気が出てきたら自分に言い聞かせて、自分の不安と正面から向き合う勇気を持ちたいものです。
「逃避」を単純に逃げと決めつけず、未熟な自分を受け入れて、生き方を根本的に見直す良い機会にすることも大切かもしれません。
無意識で働いてくれるたくさんの防衛機制によって、人は壊れることから守られてきたのでしょう。
そう思うと本当に有難いことです。
自分で選択して決断し、一旦はその場を離れても、そこに安住はしない…そんな「しなやかな生き方」ができるようになればいいですね。
ここまで考えて来て、感謝しながらも、如何に無意識に「自己防衛」「正当化」する生き方を選んでしまっているかに気付かされて、愕然とする思いは否めません。
それでも、幾つになってもまだまだ未熟者だとしっかりと認めて、前を向くことを諦めず、少しでもビジョンに近づけるように、やっぱり努力したいと思えている自分が居るのが嬉しいです。

(2023年7月9日 若杉)

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