記憶が教えてくれること

近頃、過去の苦い思い出がよみがえる

60年以上生きているからかどうかわかりませんが、最近ふとした時に過去の記憶がよみがえってきます。
今でも未熟ですが、若い時はさらに未熟でした。
なので思い出されることは自分の未熟さを突きつけられるような過去の出来事です。
あの人にあんなことを言ってしまった…。
あの時あんな態度をとってしまった…。
まあ、そこまでひどいことをしたとは思いたくはありませんが、相手がどう感じたかはわかりません。
今まで思い出したこともないようなことまで意識に上ってきて、そのたびに、謝りに行きたいという気持ちになります。
実際そうすることはできないし、謝りたいというのも、自分の心残りを晴らしたいというエゴなので、そうすることがいいとも限りませんが。

なぜ思い出すのだろう?

私たちの記憶は不思議です。
生まれてから年齢分の体験を積み重ねながら、時々ふり返って思い出そうとしても、記憶のすべてが思い出せるわけではありません。
なのに、ふとした瞬間に、思い出そうとしたわけでもない過去のシーンが浮かび上がってくるのです。
一体私たちの記憶はどこに収められているのでしょうか?
脳のどこかという人もいますし、もっと別なところにあるという仮説もあります。
臨死体験をした人からは、これまでの人生が巻物のように目の前で展開されたというような証言もあり、生まれてからすべての経験がどこかに蓄積されているはずだという考えもあります。
どこにあるかを解明することは難しくても、思い出せるということは、やはり記憶がどこかに収められているのかもしれませんね。
では、ふと思い出す記憶とそのタイミングとの関連はあるのでしょうか?
最近いろいろ思い出すようになってから、いろいろ考えるようになりました。

記憶が教えてくれることとは?

記憶のしくみも、意識に上がってくるタイミングとの関連もわかっている人というのはおそらくいません。
だから、本当の意味も誰にもわからないはずです。
決まっていないなら、自分にとってどういう意味なのか自由に考えることができます。
私が思い出すことの多くは、未熟な自分が恥ずかしかったとか、誰かに対して申し訳なかったという気持ちを喚起するものです。
そこから考えたことは、これからの人生をしっかり生きるようにというメッセージが込められているのではということです。
これまで年齢とともに成長した部分は確かにあり、少なくとも過去の自分よりはよくなった自分を認めてはいます。
だからといって過去は消えないし、傷つけた人がいるならば、それを償う気持ちを今後の生き方に向けていくしかありません。
なので、記憶は、人生のタイムリミットまで真摯に生きることができるよう、後悔を味わうことが少ないよう、私たちに優しく諭してくれようとしているのではないかと思いました。
そう考えると思い出すたびに味わっていたほろ苦い気持ちも、異なる味わい方ができそうな気がします。

(2023年3月26日 岩田)

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