失敗したことが気にならなくなったのはなぜ?

綴りの間違いに気づいたこと

このブログは若杉と私が交互に書いています。
交互といっても奇数週は私なので、5週目の日曜日の後の第1週目も私の担当です。
で、今週の文章を準備しようと思っていた矢先に先週の見出し英単語の綴り間違いに気づきました。
macherではなく、matcherでした。
「あ~あ、なぜ気づかなかったんだろう?」と思わず自分にツッコミましたが、「まあ間違うことはあるよね」ということで気にせず、ただ一文字増やしました。
以前ならこんな小さなことも意外に気にしていたのに、最近は多少恥ずかしいことも起こってしまったことは仕方ないと思っている自分に気づきました。
実は1か月ほど前にはもっと大きな失態をおかしました。(内容はヒミツですが…)
相手があることだったので、それこそいたたまれない気持ちを引きずってしまうところでしたが、それほど尾を引かず「それも私」と受け入れていました。
これは年の功で身につけた鈍感さなのか、それとも多少自分を理解しようと努めた結果の表れなのか…。
ハタと考えました。

鈍感力も大事だけれど…

先日行きつけの美容院で頭痛の話が出ました。
そこの店長さんは長年頭痛に悩まされているそうで、頭痛薬は欠かせないとか。
そこまで頭痛に悩まされたことはない私としては、その大変さを想像するしかありませんでした。
慢性的な頭痛で、薬によって一旦症状が治まり日常生活がラクになるのであれば、やはり飲んだ方がいいのでしょう。
詳しい知識はありませんが、痛みをなくすというのは刺激に対しての感度を下げることなのでしょうね。
同じように、失敗した時それを気に病まない鈍感さも、意味づけの感度を下げた結果なのかなと思いました。
気にしないというのは確かに大事で、それによってだいぶラクに生きられるのですが、感度を下げすぎることも問題という気がします。
悩んだり苦しんだりすることがなければ得られないものもあることを、この10年ぐらいでずいぶん体験しました。
とはいえ私だって別に苦しみたくはない…。
失敗なんて誰もがすることだからいちいち自分を責めるような反応になるのは望ましくない…。
ただ、何にでも鈍感になるのもちょっと違うし、望んでいない…。
考え出すと迷路にはまりこみ、結局「なんでもバランスの問題だ」で片づけている現状です。

自己理解との両輪

一方で、失敗に寛容になったのは自分のことが少しずつわかってきたという側面もあります。
そもそも「失敗するのは恥ずかしい」「人に認められなくてはならない」という価値観から動いていたことがどれだけ多かったか…。
失敗することが恥ずかしいという思い込みがなければ人はそれに苦しむことはないのです。
が、無意識に身につけた価値観はなかなかその姿を現してはくれません。
その存在に気づくことなく、その存在に動かされているのが私たちです。
私もまた自分の空虚感から他の人に認められることをどれだけ求めていたかを痛いほど気づかされました。
だんだんと「認められたい」自分に気づき、その自分を受け入れるようになるにしたがって失敗も許せるようになってきました。
もうちょっと若くにそうなっていたら良かったのにと思わないではありませんけど…。
今も失敗を笑い飛ばせる境地にはなかなか行きつきませんが、受け止める感度の調節をしながら、気づきも得られたらいいなと、ちょっと欲張りになっています。
失敗とみなさまの関係はいかがですか?

(2020年9月6日 岩田)

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