「なんとかなるだろう」の功罪

最近子どもから叱られること

成人した子供から叱られるようになるというのはどの親も体験していることなんでしょうか?
少なくとも私自身は過去、自分の親の行動にあれこれ口を出した経験があります。
そこには「親なんだから尊敬させてほしい」という願望と、その願望が叶えられない現実への失望が同時に湧きあがった複雑な感情が存在していました。
で、今度は私が娘に叱られる番です。
因果応報ということですね、きっと。
娘からはよく「テキトウなんだから!」と言われます。
例えば料理。
ある程度は勘でなんとかなるという謎の自信があるので、レシピ通りに調味料を量るとか、時間を守るというのはできればしたくありません。
とはいえ馴染みのないものをその感覚で作ると、失敗することもあります。
そういう時にこそタイミングよく彼女が居合わせ、苛立ちを募らせるのです。
特に最近家にいることが多いので、拍車がかかっています。
確かに彼女にとってもこの期間がストレスの多いものだということがわかるだけに、甘んじてそれを受けるわけですが、一体私のテキトウさはどこから来ているんだろうと考えさせられました。

見た目と中身のギャップ

自分が人からどんな評価を受けるのか関心がない人はいないでしょう。
が、あえて訊くのは難しいものです。
だいたいは、ちょっとした会話の言葉尻から自分がどう見られているのかを知ることになります。
最近、人当たりがいいとか、話しやすいとか、しっかりしているとか、褒めていただきました。
が、そういう時も「そうなんだなぁ」となんだか他人事のように受け取っています。
ネガティブなことも思われているんでしょうが、それを口にする人はあまりいないので、実情はよくわかりません。
多分、慌て者でおっちょこちょいなところも見られているんでしょう。
忘れっぽいというのは時々指摘されることがありますが…。
そういうネガティブな面は私の「なんとかなるだろう」という思い込みから来ているのではないかと最近気づきました。
最高にはならなくても極端に悪くはならないと信じているから時間をかけて周到に準備をする手間を省き、中途半端なところでやり始めるというのが自分の行動様式のようです。
もちろんその結果、ときどき痛い目に遭います。
先ほどもネット上で慣れていない操作を見切り発車して、冷や汗をかきました。
反省はしますが、根本的なところは変わらないので、やはり忘れたころに同じようなことを繰り返すはめになります。
最近はこれも自分なんだと受け入れるようになりました。

ポジティブな面から見る

何事にもポジティブな面とネガティブな面があります。
そもそもポジティブ、ネガティブというのも見方が変われば反転してしまうものではありますが。
思えば「なんとかなるだろう」で救われてきたこと、良かったこともたくさんあるのです。
どちらかといえば出不精な私が外に出て学びの機会を増やしていったのもこれがあったからです。
面倒だ、怖い、という気持ちにとらわれていたら一歩も動けませんでした。
やらなくてはならないことへの責任が生まれて挑戦するときにも、「まあ、なんとかなるだろう」が背中を押してくれました。
変なところで真面目な私にとってテキトウさというスパイスがなければ、生きることはかなり大変でした。
娘から叱られるのはおまけですが、それによって調味料ぐらいは量って料理の出来がよくなるとしたら、それはそれでいいことなのかもしれません。
今日の投稿は特に結論もなく、とりとめのない内容になってしまいました。
これも私のテキトウさの表れですね。

(2020年5月31日 岩田)

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