安全・安心を定義すると?

安心とは「予想していないことは起きないと信じている状態」

私たちは無意識レベルで根本的に安全・安心を求めています。
では、改めて安全、安心ってどんなことをいうのでしょう?
文部科学省のホームページで(科学技術・学術審議会で話し合われたことだそうです)定義を見つけました。
それによると、「安全」とは「人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む」
「安心」とは「人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ、何かあったとしても受容できると信じていること」(ただし、安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである、という言葉もありました)

なるほどと思ったのは、特に「安心」の定義です。
そう、私たちはあらゆることに「だいたい〇〇だろう」という予測を働かせています。
その予測が外れないことを信じ、不慮の出来事が起こっても受容できる範囲だと信じている状態が「安心」の中身だというのです。
それにしても、定義の中に「信じる」が3回も使われています。
つまり、安心とは個人がそう信じているかどうかという問題なのですね。

不慮の出来事を受け入れるのは難しい

さて、今年のお盆が終わました。
私事ですが、この期間に身内の不幸がありました。
もともとお盆は「死」を身近に感じる時期ですが、今年は一連の行事の中で改めて「死」について考えさせられました。
人がいつ死ぬのかということは、まさに予想がつかないことです。
もちろん、予測の範囲内という場合もあります。
私の母は癌で闘病した後に亡くなりました。
体調の経過をみると、残された時間が少ないことはおのずと想定できました。
亡くなった時は、来るべき時が来たという感覚があったことを覚えています。
一方で、予想もできない突然の死があります。
昨日まで元気だった人が亡くなったら、残された人は急に「安心」の外に放り出されます。
今まで信じていた「安心」とは、実はもろく、儚いものだったことに気づかされるのです。
そして、その現実を受容できるのかどうか…それも人によって異なります。

頭では起こったことを理解しているつもりでも、こころの反応は別です。
訳もなく涙が出たり、無気力になったりすることがあります。
時間が経てば落ち着いて受容できるのかというと、それも人によって異なります。
「安心」とは、言葉のイメージとは裏腹に、信じるという土台にたった実体のない支えです。
その支えが一旦なくなるということは、大きくバランスを崩すということ。
逆にいえば、バランスを崩したくないがゆえに、人は実体のない「安心」を支えにするのかもしれません。

予想を超える出来事は「安心力」を高める?

「安心力」なんて、変な言葉ですが、ひところ流行った(今も流行っている?)「~力」という言葉にあやかってみました。
「自己信頼」「自己効力感」に近い意味で使っています。

文科省の定義の前半部分は「安心とは、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること」でした。
つまり、経験値によって何を安心と考える(感じる)のかが違うのですね。
予測できる状況の中に、厳しい局面も織り込んでいる人もいれば、そうでない人もいることでしょう。
ある程度の予想があったとしても、実際には想定を超える事態は起こります。
それをなんとか乗り越えると、安心の幅が広がるというくり返しのように思えます。
無駄なことは起こらないという人もいます。
「予想を超えることが目の前にやってきても、それは必要なことで、安心力を高める材料!」などと泰然と言えればいいのですが、そこまでの余裕はまだ私にはありません。
それでも、安心の設定がアップグレードされるよう心掛けていきたいとは思っています。

(2018年8月19日 岩田)

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