再始動です!

最澄と空海の「利他」

今年より新しい出発をするにあたり、屋号を「コア・コミュニケーション・ラボ」としました。
ホームページには「深いコミュニケーションで「自利利他」を実現する」という言葉を添えています。
若松英輔さんの『はじめての利他学』という本で空海の言葉に出合った結果、ふと浮かびました。
「利他」という言葉を日本で最初に用いたのは空海だそうです。
空海というと最澄の存在が同時に思い起こされます。
同時代を生き、それぞれ天台宗、真言宗の開祖となったふたり。
晩年、最澄は「忘己利他(もうこりた)」を説きました。
己を忘れて、他者を利することが慈悲の極みであるとし、自らが困難を引き受け、良きことを他者に与えるという姿勢です。
それに対して空海は「自利利他(じりりた)」が仏の教えであり、自己を深めることと他者の救済は分かちがたいと言っています。
どちらの言葉にも共通するのは「利他」。
完全に利他に生きているという人はいないでしょうが、そうなれたらいいという漠然とした理想は、私を含め誰もがもっているような気がします。

「利他」は素晴らしいが、それだけでは足りない?

一方で、「利他」ばかりで生きようとすることには危うさがあります。
最澄なら「忘己利他」に到達可能であったかもしれませんが、なかなか凡人が行きつける境地ではありません。
下手をすると他者を優先するあまりに、自分を二の次にしてしまい、気づいたら身も心もボロボロになっていた…などということも起こりかねません。
「利他」という理想に振り回され、肝心の自分をないがしろにしてしまう危険を伴います。
そんなわけで「自利利他」という言葉により魅かれました。
ただこれも、自分を満たしてから他者のために尽くすというようなことではないようです。
本来は「自利」と「利他」を区切らず、一息で「自利利他」と言うべきなのだそうです。
それは自分と他者はつながっていることを自覚することでもあります。
最澄と空海は、本来私たちには人を助け、役に立ちたいというような心(菩提心)が備わっている、と考えていました。
空海のいう「自利利他」は、修行によって自分を深めることで他者の菩提心を目覚めさせることができるという意味を含んでいます。
空海の言葉を現代に応用するなら、「自分自身がよりよい自分になることを目指しつつ、同時に他者に心を配る」ということになるのかな、と思いました。

深いコミュニケーションによって目指したいもの

日常は学習の場ですが、ほとんどは無意識の行動によって動いています。
そこにあえてふり返りの時間を持ち、さまざまな問いを投げかけることによって気づきが得られることがあります。
自問のバリエーションも無限です。
例えば、「今日一日の過ごし方に自分は本当に満足しているだろうか?」という問いはどうでしょうか?
「本当に…」と問われると、一旦答えに窮するかもしれません。
「自分にとって本当に満足している状態とはどういう状態なのだろう?」
という新たな問いが生まれるかもしれません。
その答えを導きだすために
「では、過去に満足感を感じた瞬間はどんな時だっただろう?」とか
「どうしたら満足しているかどうかわかるのだろう?」などと、違う問いが次々に生まれることもあるでしょう。
自問だけでも自分を知るきっかけになります。
コア・コミュニケーションとは、より深く自分や他者を理解しようとするコミュニケーションです。
自分との対話の質が変わると他者との対話にも変化があります。
よりよい人生とは外部の基準にとらわれない自分自分の満足感、納得感に根差した人生だということができます。
その土台が「自利利他」であることが理想的です。
ゆっくり進みながら、少しでもそうしたコミュニケーションを実現していきたいと思っています。

みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

(2024年1月27日 岩田和美)

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