ただ坐る

本との出合い

人との出会いと同じように、本との出合いも縁です。
地球上には多くの人がいますが、人生で出会える人はそのうちのごくわずか。
人と本ではどちらが多いのかわかりませんが、数多の本の中でも出合えるものは限られています。
さらに出合っても忘れてしまうことの方が多い。
記憶に長くとどまる本は、心の深いところに響いた本のみになります。
先日、ふと手に取った本が『禅的修行入門 ― 誰でもあらゆるものから自由になれる秘訣』。
著者は鈴木俊隆(すずきしゅんりゅう)とあります。
仏教・禅思想で鈴木大拙と並び「二人の鈴木」と称される方だということを初めて知りました。
1962年にサンフランシスコ禅センターを設立され、1971年に68歳で遷化(せんげ)されたそうです。
海外で禅を広めるには、多くのご苦労があったと想像されますが、老師の講話集であるこの本は、アメリカの弟子たちに対して、例えを駆使しつつ親しみやすく語りかけています。
ただ言葉がわかりやすくても、中身はどこまでも深そうだということは言うまでもありませんが…。

「ただ坐る」ということ

弟子のエドワード・エスプ・ブラウンという方の序文に、老子が言い続けたただ一つのことは、「只管打坐(しかんたざ)を行じる」だったと、書かれています。
「只管打坐」とは?
英語ではたいていjust sittingと訳されるそうです。
とはいえ「ただ坐る」といわれても、どういう坐り方なのか、坐禅を知らなれば想像もつきません。
先の序文によれば、「思考を抑圧することでもなく、また思考に耽る(ふける)ことでもない」と表現できる、とあります。
また、「『あれ』よりは『これ』である一方、『区別しないこと』を指し示す」。
「あらゆるものを包む存在の全体性として、一方ではあちこちに飛び回る思考(モンキー・マインド)を一掃し、他方では自己をリアルに実現すること」なのだそうです。
これらは思考的に理解することを超えた表現ではないでしょうか?
ただ、意識の奥ではどこか納得できるような感覚もあります。
情報の洪水にさらされ、頭の中に常にたくさんの言葉が流れ込んでいる昨今、「只管打坐」を意識することには大きな価値があると思われます。
私も朝晩のわずかな時間をプチ瞑想に使っていますが、それに近い状態になったことがあるのかどうか定かではありません。
が、「『これ』が只管打坐ではないかと思ったなら、それはおそらく只管打坐ではないでしょう」ということも書かれています。
只管打坐を目指すのではなく、本当に「ただ坐る」だけが大事なのでしょう。
今年あと40日ほどを残すばかりですが、このタイミングで手元にやってきたこの本に特別な縁を感じたので、「只管打坐」を心にとめて過ごしたいと思います。

(2023年11月19日 岩田)

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