人間の死に方

どこに向かって生きているか

「何のために生きているのか?」
古より宗教や哲学の中心テーマであり、多くの人が人生の中で一度はその答えを求めるであろう重大な問いです。
が、その答えは人によってさまざま、正解もありません。
一方で、「人はどこに向かって生きているのか?」という問いならどうでしょう?
これも人によってはいろいろな答え方ができるのかもしれませんが、その中でも確実な答えは「死に向かっている」というものです。
「死」という言葉は否定的なイメージをまとっています。
多くの人はいずれ訪れる死のことを話題にし、考えることに抵抗をもちます。
最近は不老の研究が進んでいるという話もありますが、未だ現実的ではなく、死だけは確実に誰にでも訪れます。
私自身はもともと「死」というテーマに興味を持っていましたが、還暦を過ぎてから「死」というゴールが以前より近く感じられるようになりました。
さらに、年上の方々とも多く接する中で、人生をどのように生きたら悔いなく死を迎えることができるだろうかと、よく考えるようになりました。
固定的なイメージに振り回されるのではなく、改めて「死」という言葉に向き合ってみようと思い、自問してみました。
「そもそも長く生きるのは本当に幸せなことなのか?」
「死はそこまで忌み嫌われるものなのか?」
「どうしたらよく死ぬことができるのか?」
など…。
はっきりした答えはまだありませんが、問いをもって生きることは大事なのかな、と思っています。

『人間の死に方』という本との出合い

そんな中、きっかけは忘れましたが、久坂部羊(くさかべ よう)著『人間の死に方』という本に巡り合いました。
医者である著者が父親(こちらも医者)の生き方と亡くなり方を記した本です。
副題は「医者だった父の、多くを望まない最期」。

このお父様の生き方が興味深いのです。
なにしろモットーは「先手必敗」。
つまり病気に打ち勝つために積極的な治療はせず、自然にまかせるという姿勢です。
医学の常識を無視して糖尿病の診断が出ても甘いものは食べ放題、タバコも1日20本という不摂生には、痛快さすら感じてしまいます。
その背景には、病気が悪くなってもあきらめるという強い覚悟があったからだといいます。
本の中には息子さんがお医者さんだったからできたことも書かれていて、私たちが同じように生きることは叶わないのかもしれません。
が、どのように死にたいのかをあらかじめ考えておくというのは大事だと思いました。

一方で、私たちは自分の死に向き合うとき、そうそう冷静ではいられないでしょう。
私も余命宣告を受けた自分がどうなるのか、想像ができません。
淡々とやるべきことをやって清々しくこの世を去るのか…。
それとも、生きることに未練たらたらで葛藤を抱えたまま逝くのか…。
このお父様も、死を前にして遺品への執着を見せる場面があります。
息子が、執着は苦しみを生むだけではないのかと糺すと、父親は「まだ生煮えや」と返します。
生煮えというのは十分に達観していないという意味のようです。
息子は、親に最期まで立派であってほしいと願うのは自分のエゴだと自覚するのです。
現実とはそう甘くはない、さまざまな葛藤がつきものだということですね。
やがて父親は死を迎え、家族は安らかな気持ちで父の死を受け入れ、見送ります。
私には理想的な死の場面だと感じられました。
この本を読んでから、これまでなんとなくやっていた遺影(自分の…)や、口座や大事な書類をよりわかりやすく残そうと意識するようになりました。
死というゴールがあるから今を大事に生きる、などとカッコよく言える状態ではありませんが、自問は続けていこうと思います。

(2021年4月4日 岩田)

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