「自分」だと思っている存在

多様な人格の集合体としての「自分」

昨年から意識して自分を観察しています。
どんな時にどんな自分が出てくるのか…。
「あ~、こんな自分もいたんだ」と驚かされることもあります。
こう書くと、まるで他人事のようですが、興味深いです。
「自分」だと思っている存在は、多様な人格の集合体のようなものなんだなぁと感じています。
大まかな「自分」という入れ物の中に、何人も自分がいるようなイメージです。
私が気づいている自分の中には、
「気軽に人と話をし、社交的とも受け取られる自分」「人見知りで新しいところに入っていくのがおっくうな自分」
「行動的な自分」「考えるだけで一向に動けない自分の方」
「言われることを鵜呑みにする主体性のない自分」「いちいち懐疑的な自分」
など、反対の性格をもつものが共存しています。
それぞれの自分は人格を持ち、その人格になりきっている時は、他の自分を忘れています。
例えば、弱気な自分が表面化している時、自分はどこまでも弱く、何もできないと信じています。
反対に楽観的な自分が表面化している時は、人生は何とかなると信じて疑いません。
一貫性にはほど遠く、「自分って何なのか?」と訳がわからなくなりそうです。
そもそも「自分とは何か?」というのは、昔から哲学の重要なテーマでした。

さまざまな人格を俯瞰して受け入れられたら…

自分の中にさまざま人格の自分がいる。
難しいことではありますが、俯瞰的に複数の人格を眺めることができたらいいなと思います。
私が目下、課題としているところです。
俯瞰的に眺められたら、過剰に優勢になっている人格に気づくことができます。
気づいたら、過剰になっている部分を抑止する人格を意識的に出すことが可能になります。
私の場合、つい否定的な気分に引っ張られ、自分の無能さ加減に嫌気がさす、なんてことがたまに起こります。
この「無能で無力というセルフイメージをもつ人格」は、幼いころからなじみのある人格です。
この人格により、少しは努力するようになったという点でプラスの効果があったことは否めません。
が、今も時々私をどんよりとした気分に落ち込ませるものでもあるのです。
落ち込んでいる時はそれが自分のすべてというような感覚になってしまいがちです。
その時にその人格が「一部」であることを認識できたら、ずいぶんと感覚が変わります。
無力な自分も自分ではあるものの、一方でできることがある自分もいるということがわかります。
どちらの自分も受け入れ、自分という集合体の一員として認知していく…。
そんなプロセスを繰り返しているところです。

(2019年1月27日 岩田)

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