『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

「分人(ぶんじん)」という概念

時々読み返したくなる本があります。
平野啓一郎さんのこの本は、まさにそれ。

以前メルマガでも紹介したことがありますが、「私とは?」という問いが浮かぶたびに思い出します。
で、今日、久しぶりに目を通してみました。

「分人(ぶんじん)」とは、平野さんの造語で、人の人格は一つしかないのではなく、対人関係ごとに様々な自分がいるということを示しています。
例として、パリへの語学留学の体験が挙げられています。
かいつまんで紹介すると…
語学学校の申し込みの際、クラス分けの面接で自己紹介を流ちょうに話したために、一番上のクラスに入れられてしまった。
6人のクラスで他はドイツ語圏のスイス人。
完全に落ちこぼれ、だんだんひどく陰気な人間になっていくのを感じた。
が、パリで暮らす日本人の友人たちと話すときは、一瞬にして快活になり、語学学校での様子を饒舌に語っていた自分もいた。
また、語学学校では一つ下のクラスにレベルを下げてもらうと、急に優等生になり、明るい表情を取り戻した。
というエピソードです。
結構、誰にでも覚えがあるんじゃないでしょうか?
私もまわりの人との関係によって、自信のない自分になったり、鷹揚な自分になったり、明るかったり、暗かったりします。(人からはその変化があまりわからないとはよく言われますが…)
平野さんは、「人間は、対人関係ごとに色んな自分を持っている」といい、それはキャラを演じるというのではなく、無意識にそうなってしまうのだといいます。

そもそも私とは何か?

確かに、私たちは相手や環境によって無意識に自分を変えています。
あるいは、変えさせられています。
そういう自分になろうと決めてなっているわけではなく、そうなっています。
例えば最近こんなことがありました。
ある人(Aさん)が、普段接している私に対して「穏やかな人」という印象をもっていたようです。
が、私が親しくしている別の人(Bさん)に接している態度を見て、驚いたというのです。
穏やかなはずの私が、Bさんに対しては、ズケズケ言っていたからです。
「分人」という考え方からすれば、私はAさんと接する時はA‘という人格を出し、BさんにはB’になるということで、どちらも私です。
A’になるのもB’になるのも、私の中では完全に無意識に起こっています。
が、今回Aさんが驚いたことで、私はB‘という自分を再認識することになりました。
(何事も言われないとわからないものです)
で、いろいろ考えました。
相手との関係性の中で自分が望んでいることがあり、それが果たされないことに苛立ちを覚えていたのかもしれない…
しかし、それは相手の問題というより、自分の問題なんだなぁ…など、と。
できれば穏やかで人格者という自分でいたいけれど、そればかりというのはありえません。
どちらかというと好ましくない「分人」もまた自分であり、現実です。
平野さんは「個人」が整数の1とすれば、「分人」は分数だといいます。
私の中にいるたくさんの「分人」はどれも「私」を構成している要素。
暗い自分もいれば、明るい自分もいるし、無能になっている自分もいれば、有能さを発揮している自分もいます。
どのような「分人」が自分の中にいるのかを知ることは、意識的に「分人」を活用することができる一歩なのだと思います。
みなさんの中にはどんな「分人」がいますか?
(2018年7月22日 岩田)

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