人生で「やるべきこと」のヒントは意外なところにある?
あるインスピレーションから
先日ある場で呼吸を整え静かな気持ちになっていた時、ふっとインスピレーションがやってきました。
「私は教える人だ…」と。
その時「ああ、そうなんだ…」という不思議な納得感に満たされました。
確かに私は教えています。
が、自分で決めてそうなったという自覚がありませんでした。
気がつくと人前で教えるということをやり始めて30年以上になります。
ビジネスマナーやコーチング、ファシリテーション、人間の心理…。
大学院の授業ではロジカルシンキングまでやるようになりました。
ただ、どこかで「これは自分が本当にやることなんだろうか?むしろ1対1で話を聴く方が好きなんだけど…」という思いが常にありました。
「教えています」なんて人に言いながら、おこがましいような気もしていました。
そもそも私は、人前で話をするなんて嫌いだし、苦手だったはずです。
自意識過剰な子どもで、上手に話したいという思いと話し方が空回りし、話したあとはいつもひどい自己嫌悪に悩まされました。
長い間、自分は話下手で面白味のない人間だというセルフイメージにとらわれていました。
しかし人生は不思議です。
自分の意思なんてほとんどないままに、出会いを重ねた結果、人前で話す機会がなぜか増えていきました。
その都度どうしたら伝わるのか、悩み、葛藤してきました。
どうもこれまでの日々は「話す」ためのトレーニングであったかのようです。
「自分は一体何をするために生まれてきたのだろう?」
生まれてきたからには何らかの役割があり、それを果たすために具体的に何かしなくてはならない、そう思っている人も少なくありません。
何をするために生まれてきたのか教えてくれる人がいたら、どんなにいいでしょうか?
(あるいは良くないかもしれませんが…)
「役割」も「何か」も、誰にも本当のところはわかりません。
「好きなこと、得意なこと」にヒントがあると言われることもあり、それを糸口にすることもできそうです。
好きなことは楽しいですが、どんなに好きなことも、真剣にやろうと思ったらそれなりに苦労があります。
一方で「嫌いなこと、苦手なこと」はどうでしょうか?
できたらやりたくですね。
私も人前で話すことはやりたくないことでしたから。
よほどの理由がない限りは、自分から選ぶことはありません。
どちらにしてもある程度の苦労はつきものです。
そして「好きなこと」だけでなく、「嫌いなこと」にも、「何か」の芽を伸ばす可能性が秘められていると仮定したら、「好きなこと」ばかり追っていると何割かの可能性を見逃すことになります。
「嫌いなこと、苦手なこと」であっても、なぜか引き受ける羽目になる、ということがあれば、そこに何かあるのかもしれません。
私は「教える人」という自覚をしたわけですが、それで自信をもったわけではありません。
あくまでも苦手なこととして克服しながらも、人に何かを伝える役割を甘んじて受け入れてみようと思っただけです。
いつもやっていることでも、改めて自分で決めていく。
そうすることで、また違ったものになっていきそうです。
(2018年1月20日 岩田)