私たちは「一般化」をする
無意識で行っている「傾向と対策」
今年もあとわずか。
受験生は追い込みモードでしょうか。
30年以上前、受験生だった頃のことをふと思い出しました。
田舎だったので当時は塾に通う高校生はそれほど多くはなく、私も自宅で勉強していました。
『傾向と対策』なんて書かれた参考書をバイブルのようにしていたことが懐かしいです。
実際、受験する大学の試験の傾向を知り、対策を立てる方が効率がいいことは明らかでした。
ところで、「傾向と対策」は試験だけのものではありません。
人間関係にも自然に使われています。
初対面の人を見たら、一目で「優しそうな人」「近寄りがたい人」などいうレッテルをつい貼ってしまうのもそうです。
心理学ではラベリングといわれています。
レッテルは相手の「傾向」です。
あくまでも自分の印象に過ぎないので、仮説にすぎず、実際その人がどういう人かはわかりません。
ただ仮説があった方が断然対応しやすくなります。
「怖そうな人だから、しばらく逆らわないようにしよう」
「頼れそうだから、相談しても大丈夫だろう」
など、対策へと向かう流れがスムーズに出てくるのです。
「一般化」とは部分的なことを全体につなげること
ものごとの一部分をみて、あたかもそれが全部のことを表しているかのようにみなすことを「一般化」といいます。
ラベリングも「一般化」です。
「一般化」すると、ものごとが単純になるので、確かにラクです。
ただ、デメリットもあります。
ある人を一旦「〇〇だ」と決めてしまうと、それ以外の部分を見つけにくくなります。
「一般化」は誰もがしています。
私自身も、簡単にそうしている自分に気づくことがあります。
人はみんな多面的だということはわかっているつもりですが、無意識の力には及びません。
例えば、怖そうという印象をもった人が冗談を言っても、戸惑いが先だってしまいます。
ラベリングされたその人は、私の無意識の中では冗談など言わない人ということになっているのですから。
逆に、誰かに「あなたは〇〇な人ですね」と、一言で言われたらどうでしょうか?
「いや、あなたは知らないかもしれないけど、こんなところもあるし…」と言いたくなります。
自分でも自分を把握しきれないのに、一言でまとめられたらちょっと違和感を感じます。
「一般化」してしまうことにはなかなか逆らえません。
だからこそ、時には「一般化」を健全に疑ってみることが大事だとつくづく思います。
「一般化」をあえて外して、目の前の人をよく見ようとしたら、思いがけない一面に気づくことがあります。
人の中にある複雑さを受け入れることは簡単ではありませんが、しばらくテーマにしてみます。
(2017年12月17日 岩田)