真実とロールモデル

映画『真実』の話

ステイホーム期間から新しい生活へ緩やかに移行しています。(もしかしたら緩やかではないかもしれませんが…)
およそ3~4か月というステイホームの時間、普段よりたくさん映画を観たという人は多いでしょう。
私は映像より文字の方がラクなので、ほとんど観ていませんが、それでもこの期間友人の勧めで3本の映画を観ました。
「ジョーカー」「マディソン郡の橋」そして「真実」です。
この順番に観たので、一番最近は「真実」。
是枝裕和監督が国際共同制作で手掛けた作品です。
フランスの国民的女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)と、その娘でアメリカ在住の脚本家リュミエール(ジュリエット・ビノシュ)の間の愛憎にある真実を、互いが見出していくまでのストーリーが描かれています。
娘を愛してはいるもののそれを示さず、女優として表現の高みをめざす母。
母の中に女優としての姿しか見られない娘は、自分が母親になっても尚満たされないものを抱えている様子。
ファビエンヌの自伝の出版記念に夫と娘とともに久しぶりにパリの母のもとに里帰りしたリュミエールは、撮影中の映画「母の記憶」の現場に立ち会うことで、母と会話し、ゆっくりと互いの心のうちを明かし合うという内容です。
当然ですが映画の感想は、人それぞれ。
この映画のレビューを見ても、いろいろな感想があって面白いと思います。
ということで私も感じたことを素直に書いてみます。(少しネタバレ入ります)

主観的事実と真実

そもそも真実とは何か?というちょっと哲学的な問いが浮かびました。
映画では、「オズの魔法使い」の演劇の記憶がけっこう重要な役割を担っています。
中学生だったリュミエールがライオン役を演じた時、父親は来てくれたけれども女優の母親は仕事を優先させた…。
それは自分の母親はそういう人だという思い込みを定着させるような出来事だったようです。
以後、彼女はその思い込みとともに母親を見ていくことになったのでしょう。
思い込みとはあくまでも主観。
でも私たちは自分が見ている世界が現実だと認識します。
そこに歪んだフィルターがかかっていても全く気づくことができません。
映画では最後にファビエンヌが告白し、その主観的な世界が変わっていくわけですが…。
キーワードは「修復」(フランス語では、レパラシオンと言います)。
頑なに信じていたものも変わるのだし、修復できないと思っていたものも再生は可能という希望を感じました。

それにしてもね、見終わっても依然として「真実」とは何か?という問いは残ったのです。
最後の方にリュミエールがその娘から「それは真実?それとも嘘?」と訊かれる場面があります。
ドキッとする質問です。
一体真実ってどこにあるんでしょうか?
つい突き詰めたくなってしまう自分に気づきます。
とりあえず何らかの答えを出して安心したいのです。
が、それも違うのでしょう、きっと。
真実なんて誰にもわからない。
わかったと思ったら、すでに真実ではないということかな、とも思います。
だから、今自分が信じていることを認識することと、それが真実ではないかもしれないことを知っておくこと、それだけで十分なのかな、なんて感じた次第です。

プロフェッショナルであること

それともう一つ、女優としてのファビエンヌの姿勢には興味をそそられました。
カトリーヌ・ドヌーブの圧倒的な存在感と感情の機微を表現する演技力のたまものとも言えますが。
映画の中でファビエンヌは日常で経験したことすべてをよりよい演技のための糧にしているようでした。
撮影が完了したにもかかわらず、その完成度を高めるために提案をするような姿には飽くなき向上心を感じます。
わが身をふり返り、まあいいか、と適当なところで妥協してしまう自分と思わず比べました。
同じような状況で、再挑戦をもちかけるようなことは私にはできませんが、それでも良いものを創るために諦めないという姿勢は学ぶべきだと思わされました。
プロとはどういう存在なのかを改めて自問することになったのです。

それにしてもカトリーヌ・ドヌーブはすごい!
年齢を重ねても尚美しい姿、否、年齢を重ねたからこそ輝く美しさには憧れるばかりです。
人生の終わりに向かって、モデルのひとりになってもらおうと決められたのも、この映画との出合いでプラスになったことです。

(2020年6月21日 岩田)

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