聴き上手のお手本はモモではないでしょうか?

モモは、ミヒャエル・エンデの小説「モモ」の主人公


大きな都会の南のはずれにある廃墟の円形劇場にいつしかたったひとりで住み着いた少女モモ。
背が低く、やせっぽち。
十歳前後と思われますが、実際のところはわかりません。
つぎはぎだらけのスカートと、だぶだぶの男ものの上着という姿は異様です。

が、いつしかこの小さな女の子は、近所の人たちにとって、なくてはならない存在になったのです。
それは、モモのめずらしい性質のせいでした。どんな性質でしょうか?

ちょっと長いですが、以下に小説の文章を引用します。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。
なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。
話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。
そしてこの点でモモは、それこそほかには例のないすばらしい才能をもっていたのです。
モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。
モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、
というわけではないのです。
彼女はただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。
その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。
するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、
すうっとうかびあがってくるのです。
モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、
きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。
ひっこみ思案の人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。
不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。
たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、
おれはなん千万もの人間の中のケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、
べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、
どうってちがいはありゃしない。
この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。
するとしゃべっているうちに、
ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。
いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、
だからおれはおれなりに、この世の中で大切な存在なんだ。

こういうふうにモモは人の話が聞けたのです。

これがモモのめずらしい性質です。その性質が人にもたらしたものは驚くべきものですね。

みんなが今よりほんの少し「聴く」ことができたら、世界はどうなるのでしょうか?
そして聴くことに終わりはありません。
自分を磨きながら、聴き続けていきたいと思っています。

(2015年12月24日 岩田)

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