『ラクになること』へのこだわり

最近腑に落ちたこと

以前にもこのブログで取り上げたことのあるテーマですが、最近、腑に落ちるような気づきがありましたので、再度取り上げることにしました。
私は長年会話の中で、「こうすればラクになる」、「このほうがラク」…という言葉に反応して、かなりザワツキを覚えていました。
自分の中にどんな思いが潜んでいるのか、何に気づきたいと思っているのか…今までにもセッションでのテーマにしたりして、その都度いろいろな角度から気づきと学びを得ては来ました。

「頑張ること」が美徳

昭和世代の私たちは、「頑張る」という言葉に後押しされて生きてきたので、あまり努力をしないで簡単にラクに生きることへの抵抗感が染みついていて、安易にラクになることには罪悪感すら感じてしまいます。
ですから、このテーマでお話をすると、結構多くの方々から共感をいただきます。
では、私達はラクになってはいけないのでしょうか? 
また、ラクになりたくないのでしょうか?
誰しも、苦しいこと不快なことや痛みは好ましく感じられないので、一刻も早く取り去りたいと思うことは否めません。
これは、潜在意識にある本能の働きだし、自然治癒力も回復に向かおうとするので、決して悪いことではありません。
お医者様や整体師も、コーチやカウンセラーも、不定愁訴や痛み、こだわりからの苦しみ…は解消してさしあげたいとサポートします。
では、私のこの違和感・ザワツキはどこから来るのでしょうか?
「言葉」、「発する人物」、「シチュエーション」…、どれもありそうですがどれもピタッとは来ません。

「楽に生きる」とは?

では、一般的に「楽に生きる」とは、どのように考えられているのでしょうか?
ちなみに、ネットで検索してみると、沢山の項目があります。
ここではその内のいくつかを挙げてみます。
●「楽に生きる7つの方法――執着を捨ててシンプルに
●「人生を気楽に生きる3つのコツ」
●「片付けて。ラクに生きる」
●「もっと人生を楽に生きる7つのヒント」
確かに、こだわりや執着が辛さや苦しみを生み出す要因の一つだと思います。
樂に生きることは、全人類が当たり前に思っている願望ではありますが…。
いずれの項目も日常の行動や心の持ち方などが詳しく挙げられていて、どれもある程度の共感はするものの、まだまだ私の中にはモヤモヤ感が残ります。

何のために…が大事

お待たせしました。そろそろ私が気づいた結論を申し上げます。
先日のセッションで久し振りにテーマに挙げて、いろいろな角度から話を進めていく内に、私のこだわりは、ラクになるという言葉でもなく、この言葉を使う人物でもなく、場面でもないことが判明しました。
ラクになるからこの方法を選ぶとか、苦しみや葛藤が嫌だからラクに行きたいとか、ラクになるための道を選択することに抵抗を感じていたのです。
これは、今までも気づいていたことです。
が、様々な感情に翻弄されて、かなりモヤが掛かってスッキリと腑に落ちていなかったのです。
大切なことは、「ラクになることが目的」ではなく、本来なすべき大事なことにエネルギーを注いで立ち向かうこと、そのために妨げとなることの原因を知り、根本から心身を整えること。
私は、いつの間にか使命感に踊らされて、生きる目的、行動する目標…、自分のためだけでなく他の誰かのために、いまなすべきことにエネルギーを注ぐことが大切なことだと、極端に「光」になり過ぎていました。
昨年古希を迎え、人生を終活するに当たり、「使命感・ミッション」という言葉に過敏になり、無意識に流されると、「平穏無事、ラクに生きる」方向に行きがちなのを、どこかで必死に押しとどめていたのかもしれません。
平穏無事、現状維持は、人生の一場面でしかありません。
自然界でも、現状維持⇒破壊⇒創造――のサイクルの一場面であって、どれも必要なこと。
日常の、いまを誠実に生きることがやっぱり大事なことだという思いに至りました。
ある意味、まだまだ成長したいと思っている健気な自分に気づいて、一人で少し愛おしくなりました。
ちょっと力を抜いてリラックスして、『ラクに生きるも良し、目的に生きるも良し…』の心境で、今年も一年過ごしていきたいと思います。

(2020年1月26日 若杉)

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る