日常の中にある実は哲学的な「問い」

締め切りがない時に顔を出してくる「問い」とは?

最近、これまでと違ったことを形にしようかなぁとして考えています。
自分だけでなんとなく決めたことですから、いつまでに何をするという締め切りもありません。
て、昨日はある本のエッセンスをまとめていました。
手をつける時は結構やる気満々でした。
すごく大事なことに思えて、軽いワクワク感すらあったのです。
ところが、パソコンで作業を続けるうちに、ワクワクは鳴りを潜め、単調な作業に飽きてきている自分がいました。
すかさずどこからか、疑問が浮かんできます。
「これをすることに何の意味があるの?」
「これって本当に大事なことなの?」と…。
問いを意識するかどうかは個人差があるかもしれませんが、多くの人が同じような体験をしているのではないでしょうか?
こうした問いは、実は「哲学」の問いです。

哲学は歴史の転換点に活発に展開されるそうです

ところで、フランスの高校では哲学が必修だそうです。
バカロレアという大学入学資格試験にも4時間に及ぶ哲学の筆記試験があるとか。
哲学というと、近年ニーチェに関する本がベストセラーになったりしたので、やや身近に感じられるようになったかもしれませんが、まだまだ日本人には近づきがたい印象です。

最近『いま世界の哲学者が考えていること』という本に出合いました。

(内容は私の理解をはるかに超え、説明しがたいので、興味のある方は読んでみてください)
「はじめに」のところで、著者の岡本裕一郎氏は、
「物事を考えるとき、哲学は広い視野と長いスパンでアプローチします。日々進行している出来事に対して、一歩身を引いたうえで、『これはそもそもどのような意味なのか?』『これは最終的に何をもたらすのか?』という形で問い直すのです」と書かれています。
シンプルな哲学の問いは、意外にも昨日の私の問いと同じでした。

さらに著者は「歴史を眺めてみれば、時代が大きく転換するとき、哲学が活発に展開されているのが分かります」とも書いています。
時代の転換には科学技術の状況が大きく関わっている…。
現代はまさに情報や生命科学、環境問題などでこれまでない変化の波が押し寄せている時代であり、今後さらに哲学がクローズアップされてくるのでしょう。

歴史と同様に、個人にも哲学の問いは活かせる

個人にもまた転換点のようなものはあります。
これまでと違うことをしていくような場合です。
私の場合は人から依頼された仕事をするだけでなく、自分で決めたことをするということもそのひとつです。
相手との約束を果たすためには頑張れても、自分で決めたことを続けるのは難しい…。
続けているうちにワクワクがなくなると、「何の意味があるの?」という問いに対して、簡単に「意味はないかも…」という結論を出してしまいがちです。
過去を振り返ると、それで挫折してきたことも多いなぁと思います。
が、問いを持ち続けながら、進むこともできるはずです。

昨日ある番組の録画を何気なく見ていました。
視聴者からあるアイドルに対して「アナウンサーになりたいのですが、どうしたら夢を叶えられるでしょうか?」という質問が来ていました。
答えは、「なれるまでやり続けること。途中で止めずにできるまでやること」。
それを聞いて、「うーん、諦めなければアナウンサーって誰でもなれるんだろうか?適性というのもあるかもしれないよね?」とか、ちょっとツッコんでしまったのは確かです。(ついでに私も学生時代、渋谷のNHKにアナウンサー試験を受けに行ったことを思い出しました…)
でも、「できるまでやる」という言葉は心に響きました。

「できるまでやる」のが苦しいから、「何の意味があるの?」という問いに簡単に白旗を揚げ、スゴスゴと引き返してしまうことが多かった自分です。
そこには「無意味なことはしたくない」という気持ちも働いています。
「意味」のあるなしなんて、簡単に決めることはできないことはわかっていても、無意識に「意味」を求めているのです。
無意識が求めることを抑え込むことはできません。

「意味を求めながら、もう一歩だけ進んでみる」というのが、今のところ私ができる哲学と実践のバランスの取り方なのかなと思った次第です。

(2017年11月11日 岩田)

関連記事

ページ上部へ戻る